おはようございます。今日も一日お元気でお過ごしの程お祈りいたします。
今朝は、久米南町日蓮宗蓮久寺、長谷川教敏がお話いたします。
古代の伝承説話に、ギリシャ神話があります。その中に、子供向けの読み物としてもよく知られている話で、「ミダス王の願望」があります。
ギリシャで、古く酒の神様として知られるディオニソスの昔の師匠で、養父でもあるシノレスが酒に酔ってさまよい、村人に捕えられて、その国の王様ミダスの前に引き立てられました。ところがミダス王は、この酔いどれ爺さんがシノレスと知っていて、十日間大歓待をしてもてなし、ディオニソスの所へ丁重に送り届けました。
その礼に「何でも望め」といわれた王は、「手で触れたものが、すべて金に変わる力を授けて欲しい」と願いました。
その帰り路、傍らの木の枝を折り取ると、たちまち金に変わり、小石を拾えば金になる。樹に実ったリンゴをもぎとると黄金のリンゴになる。王は驚喜し、神に感謝しました。
ところが城へ帰って食事をする時、手にしたパンが固い黄金になって噛めません。酒が金の泥になり、何一つ飲み食いできないのです。腹が減って苦しみもがいても、手に当たるものが皆金になってしまう。あげく、最愛の幼い娘を抱きしめたとたん、娘は冷たい金の像になりました。王宮は燦爛たる黄金に塗りこめられた破滅の牢獄に変わりました。
ミダス王はおのが過ちを悔いて、ディオニソスに祈り、謝罪し、やっと黄金地獄の苦患から免れます。
それ以来王は、世のおよそ富や贅沢や快楽に見向きもせず、自然を尊び、あるがままを重んじた生活を送りました。
これがミダス王の話です。手に触れるものがことごとく黄金に変わる。これ、私たちの現代を象徴しているように思われます。
経済至上の現代、利潤追求最優先の今の社会。なんでもかんでもお金に換算し、お金でもって評価していく世の中。また家庭の主婦は、子育ては年寄りに預けて、手持ちの生活時間を切り詰めて、時給いくらでパートに出る。金が欲しくなれば血液を売ったり、臓器までも売り買いしたりしかねない。親子兄弟夫婦でも、金欲しさから生命保険に入れて殺そうとします。そしてこうした一にもお金、二にもお金の風潮は、その反動が、そのツケが今いろいろ出始めてきています。まず私たち自身の体質の中に、色濃く充満しています。
ミダス王は、自分の抱いた願望の結末に戦慄して、方向転換できました。現代の私たちは、まだ無自覚だといっていい。しかしやがてきびしいシッペ返しが来ることでしょう。
私たちは一体どうしたらこの体質から抜け出すことができるのでしょうか。
人間の生きる安らぎは、お金を追い求めていっても得ることは出来ない。
「ああなりたい」「こうなりたい」ではなく、「このままでよい」「これだけでよい」「元のままが一番よい」のところに帰る。そこに喜びがあり安らぎがある。これが仏教の教えです。
日蓮聖人はもっと押進めて
『苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱えいさせ給え。これあに自受法楽にあらずや』と述べておられます。
「人の世は、苦しいこともあれば、楽しいこともあります。苦しいことは苦しいこととして受けとめ、楽しいことは楽しいこととして受けとめ、苦も楽も自分に与えられたものとして承知し、ただ南無妙法蓮華経とお唱えなさい。その信によって、わが身に悦びが与えられます。これがお経で説かれた自受法楽なのです。」ということです。
そして、本当の喜びや安らぎを得ようとするには、自分だけが安らぎを得ればそれでよいというものではありません。
紛争の絶えない外国の例を見ても、そのことがよく分かります。争っていては、いつ襲ってこられるか不安でならない。
したがって、宮沢賢治が述べたように、すべての者が幸せにならなければ、個人の幸福はないということです。
山口県仙崎の人で、今年生誕百年を迎えた童謡詩人金子みすゞは、大正末期にすぐれた作品を発表し、西条八十に「若き童謡詩人の巨星」とまで称賛されながら、二十六歳の若さで世を去りました。
そのみすゞの詩で「こぶとり」というのがあります。
正直爺さんこぶがなく、なんだか寂しくなりました。
意地悪爺さんこぶがふえ、毎日わいわい泣いてます。
正直爺さんお見舞いだ、わたしのこぶがついたとは、やれやれ、ほんとにお気の毒、 も一度、一しょにまいりましょ。
山から出て来た二人づれ、正直爺さんこぶ一つ、意地悪爺さんこぶ一つ、二人でにこにこ笑ってた。
昔話で正直者ならこぶがなくなり、意地悪はこぶが二つになって、天罰てき面、めで
たし、めでたし。水戸の黄門さんの印籠で、「これが目にはいらんか」「へへーっ」と悪役人たちが恐れ入って頭を地につける。見ている私たちは悪役人がやっつけられ、かっさいして、胸の内が晴れ晴れとしてきます.悪人がのさばるのは我慢できないからです。
しかし、人は生まれたときからの悪人はいない。何かのきっかけや原因があって、悪に染まっているだけです。とすれば、その原因になるものを取り除いてあげて、手を取り合って幸せになろう。これが仏教の教えです。
正直爺さんは、隣の人に自分のこぶがついて泣いているのを、ケロリとすましておられない。結局、元に戻してもらって、正直爺さんも意地悪爺さんも、ここではじめて二人で一緒に幸せになり、一件落着です。
私たちは、生きていかねばなりません。経済も大切、したがって利潤の追求も大切です。しかし、それだけでは、本当の安らぎは得られない。そこには、精神的なもの、心の問題を大切にして、金子みすゞが詩の中に警告していることを、私たちの指針として、皆で力を合わせ、安らぎの世界を目指していきましょう。
久米南町蓮久寺、長谷川教敏でした。