皆様おはようございます。今朝もお元気でお目覚めのことと存じます。今朝は御津郡建部町日蓮宗成就寺住職広本栄史がお話させていただきます。
仏様の願いの中に「よろこんで与える人間になろう」という言葉があります。ものがあればものを、力があれば力を、知識があれば知識を、みんなに与えよう、なければ自分の中に育てて与えよう。花は美しさを惜しまず、小鳥は楽しい歌を惜しまない、誰にでも与えている。与える時は人は豊かになり、惜しむ時命は貧しくなる、喜んで与える人間になろう。
今、野に咲く桜をはじめ草花たち、小鳥たちは、その美しさや、歌声や、みどりの豊かさを人に与えてくれています。燦燦と輝く太陽、毎日吸っている空気、何もかも求められずして、その恵みを私たちに与えつづけています。なのに、私達は、いったい世の人々に、自然に対し、何を与えているだろうか、と考えた時、私は思わず気恥ずかしさに耐えられなくなってしまいました。たしかに不景気な世の中、自分のことがやっとのに、他人さんどころではないと思うのが正直な思いかもしれませんが。ですから、仏様の教えの一端でも聞いて、少しでも、心豊かに生きてまいりたいものです。
仏様の教えでは、「布施」・ほどこし、すなわち「与える」ということをもっとも大切にし、それを自ら行われたのがお釈迦様です。そのお釈迦様のお説きになりました、妙法蓮華経というお経の如来寿量品第十六番目に「我れ常に衆生の道を行じ、道を行ぜざるを知って、度すべき所に随って、為に種々の法を説く」というお経文がございます。「我れ」とは、お釈迦様、すなわち仏様のことです。その仏様は、毎日私達の行動をご覧になっていて、その人その人にあった教えを、いろいろな形で説き、導いてくださっているのです。それが仮に悲しいことでも、苦しいことでも、また嬉しいことでも、楽しいことでも、みんな仏様の教え、ご説法なのだということです。
つまり仏様は、私達に体験させて、訓することもあれば、あるいは、他人の行為を通じて、私達に語りかけて下さることもあるのです。また時には、苦しみや、楽しみを、私達に与えて、何かを知らせたり、心の誤りを気付かせてくださっていることもあります。してみると、毎日の生活、身の回りの出来事は、すべてみ仏からのお指図であり、お言葉なのです。
ところが、これらを何気なく過ごしてしまうか、いや「これは仏様が与えてくださったお導きなのだ」と受け止めるか、ここが大事な分かれ道になると思います。
今から十五、六年前のことです。新幹線でお説教に行く途中、電車の中で隣の席のお方が、お坊さんという安心感でしょうか、私に次のようなお話を聞かせて下さいました。
私は高校三年生の時、はやり病で急に両親が亡くなりました。借金こそありませんでしたが、貯金もありませんでした。年の離れた七歳の妹が一人おりました。高校三年と七歳では家賃がもらえないからというので借家から追い出されました。妹を連れて、安い六畳一間を借りました。両親にかわって妹を育てなければなりませんでした。幸い高校三年生の三学期で就職も決まっておりました。昼間働いて、夜はアルバイトをしながら一生懸命、夢中になって働いたのです。二十六歳のとき安いアパートを買うほどお金を貯めたそうです。その間働くことしか考えず、洗濯、掃除、食事の準備すべて七歳の妹がしました。NHKドラマの「おしん」と同じように妹はしてくれました。人間そういう立場になるとできるものです。六畳一間なので、食卓と妹の勉強机をかねて使わせました。狭い家で育ったので掃除の上手な子に育ちました。今は大きな家にご縁をいただき、掃除上手な奥さんになっています。こうしてよく考えてみたら、両親が元気でいてくれたら、私は今ごろ暴走族になっていたかもしれません。ろくな人間になっていなかったと思います。もし両親が貯金を残していたら、今の私はなかったと思います。幼い妹がいなくて私が一人だったら、寂しくてグレていると思います。両親がいない、金はない、妹がいる、私は本気で生きねばなりませんでした。私を本気にしてくれ、大人にしてくれ、男にしてくれたのは、両親が早く死んでくれたお陰です。幼い妹をつけてくれたお陰です。家主が追い出してくれたお陰です。と、毎日両親のお位牌に線香をあげて、感謝のお経を唱えています。
でも妹が有り難いご縁をいただいて、花嫁衣裳を着けた時だけは泣けました。両親に見せたかったと。今私はお釈迦様と両親に毎日お願いしておることがあります。私どもの人生は、いつ、何が起こるか分かりません。そこで「自分の子供が一人前になるでは、私に命を与えてください」と、それのみ一生懸命お祈りしております。
というすばらしいお話をきかせていただき、お礼を行って別れました。
日蓮大聖人は、観心本尊鈔に「釈尊の因行果徳の二法は、妙法連華経の五字に具足す。われら、この五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう」とお説きになっています。すなわち、お釈迦様の積まれた功徳と、悟られた総ては、妙法蓮華経という五字の中に、みな具わっている。だから、この五字を信じ、南無妙法蓮華経と、口に唱え、心に念じ、身で行えば、お釈迦様と同体になり、自然とそのご功徳を、お譲りいただけるという有り難いお言葉であります。
つまり私達一人一人が本仏お釈迦様の懐にいだかれ、生かされていることを自覚すると、自ずとそのご本仏を仰ぎ、その教えを行じていこうとします。これが信仰であり、そのご本仏への呼びかけが「南無妙法蓮華経」のお題目であるとお示し下さったのが、お祖師様、日蓮大聖人様であります。
私事で恐縮ですが、実は平成十年七月三十日七時三十分頃、私は突然脳溢血で倒れました。左半身不随になりました。三十七日間入院闘病生活をいたしました。主治医の先生、リハビリの先生等のご熱心な治療をいただき退院できました。入院中病院のベッドの上で反省懺悔いたしました。「これは私の心得違いを、仏様が気付かせようとして、戒めのために与えてくださった病気かもしれない。それに気が付いたらご本仏は必ず救ってくださる」と思い、病床にあって、毎日一生懸命お経を唱えました。見る見るうちに快方に向かい、退院できました。次の日からの通院には自分で運転して行きました。
なにもかもご本仏から与えられたお陰でほとんど元通りに快復しました。そのご加護に対し毎日お礼のお経を唱えさせていただいております。今年は日蓮宗が生まれて七百五十一年です。唱えよ、弘めよ、総弘通。口先だけでなく、まず自らが、身々、口々、意に、お題目を唱え、お互いに持っている仏様の心をみがき、その美しい心を、尊い姿を他の人に示し、与えていくところに日蓮大聖人のみ心があるのではないでしょうか。
今朝は建部町日蓮宗成就寺住職広本栄史が放送いたしました。