おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
 今日、十一月八日は立冬。暦の上ではいよいよ冬を迎え、朝晩めっきり寒くなってまいりました。落ち葉が舞い、次第に冬の気配が伺えるこの季節になりますと、私ども日蓮宗では御会式、お講のシーズンを迎えます。御会式と言ってもご存じない方もいらっしゃると思いますが、御会式とは日蓮宗を開かれた日蓮聖人が、東京は池上本門寺で亡くなられたご命日、旧暦の十月十三日を中心に営む報恩法要のことで、今年で722回目を迎えます。
 岡山では月遅れで行いますので、十一月十二日がお逮夜、明けて十三日が日蓮聖人のご命日。市内の寺院では、「会式桜」と呼ぶ桜の花など、きれいな飾り付けをして法要を営みます。また十三日には、檀家さん信者さんが「お講巡り」といって、市内の日蓮宗寺院を順番に参拝していく習慣が、古くからあります。ちょうど四国八十八カ所をお遍路さんがまわるように、気の合う仲間とまた個人で、行く先々のお寺でお茶やお菓子などの接待を受けながら、晩秋の一日をお寺巡りをして過ごします。昨年からお講巡り用の御朱印帳も出来ましたので、各お寺の御朱印を集めながらまわるという楽しみも加わって、お詣りの方も次第に増えて参りました。
 さて、最近は景気の低迷が続くせいか、昔を懐かしむ声がよく聞かれます。ことにバブルなどの好景気に沸いた1980年代を懐かしむ復古趣味も増えてきました。東京では当時流行していたディスコが復活したり、80年代のファッションも注目を集めているようです。しかし、現在につながる様々な問題の原点もこの頃にあるように思います。「赤信号 みんなで渡れば 恐くない。」80年代の漫才ブームの中、当時、はやったビートたけしのギャグですが、あの頃笑っていたギャグも今ではギャグで済まない、笑えない現実となっているのではないでしょうか。赤信号で道路を渡ってはいけないことは、誰もが知っていますが、みんなやっていることだから私もやってかまわないだろうと、安易に考えることが、次第に増えてきたように思います。もともと、日本人の国民性と言えば、国民性なのかもしれませんが、良い方向に向かえば、一丸となって事に当たることも出来ますが、逆に悪い方向へ進めば、赤信号でもみんなで道路を渡ってしまうことになります。
 各国の国民性を表すこんな小話があります。いろいろな国の人々を乗せた大型客船が事故を起こし、沈み始めました。ボートの数が足りず、全ての乗客を助けることが出来ません。女性と子供だけをボートに乗せることになり、船長が男性の乗客には海に飛び込んでもらうよう説得に当たりました。イギリス人に対しては、「紳士でしたら、海に飛び込んでください。」と話ました。イギリス人は海に飛び込みました。アメリカ人に対しては、「英雄になれますよ。」ドイツ人に対しては、「ルールですから。」そして、日本人に対しては「みんな飛び込んでいますよ。」日本人は、急いで海に飛び込みました。
 あまり良い例とは言えませんが、分かりやすいたとえ話です。日本人というのは、付和雷同と申しますか、得てしてみんなが一緒なら良きにつけ悪しきにつけ、何でもしてしまう傾向があります。逆に言えば、多くの人がしないことをたった一人で判断して、たった一人だけで成し遂げるのは、苦手のようです。勿論、欲望の赴くままに自分勝手なことをして、後は野となれ山となれ、という人もいますし、「人に迷惑さえかけなければ、何をやってもいいんだろう。」とうそぶいて、人に後ろ指を指されるようなことをして平気な人もいますが、こんな身勝手は一人で事を為すとは到底呼べないものです。
 山梨県南巨摩郡にあじさいで知られる小室山妙法寺というお寺があります。現在では、あじさいが咲き誇る6月のあじさい祭りには、多くの参詣客でにぎわう日蓮宗の本山の一つです。しかし、このお寺も昭和47年に本堂が焼失してしまい、それ以後は徐々に疲弊し、寂れたお寺になっていました。この本堂もないひっそりとした妙法寺に平成8年、齢80才を過ぎて入山し、住職となったのが池原上人です。池原上人はたった一人で、このお寺の復興のために、毎日毎日朝から晩までお経を上げ、復興を祈りました。妙法寺は本山とはいえ、檀家は少なく、復興資金はなかなか集まりませんでした。それでも、池原上人はお堂の外にスピーカーをつけて、朝から晩まで読経の声を流しました。そのうち上人の熱意に応えて次第に人が集まるようになりました。本堂建立の機運が一気に高まりました。ついに建設が決まり、請負業者も決まりました。大工の棟梁は、毎朝水をかぶって体を清めてから現場に入り、心血を注いで工事を進めました。池原上人が入山して、なんとわずか3年で立派に本堂は再建されました。地元の人々の善意によって植えられたあじさいは、今では2万株以上になり、多くの参詣客が集まり、小室山妙法寺は往年以上のにぎわいを見せるようになりました。
 池原上人は言います。人間の能力の差はそんなにあるものではない。事を成すか、為さないかの差は、その人の気力と実行力にある。この気力の差は人により無限に違う。事を為すのに必要なものは、「情熱・熱意」と「すぐやり、必ずやり、出来るまでやる」実行力である。実行力を持って行動していく中で、私たちは天の時があることを知り、神仏の守りがなければ、事が成就しないことを知り、多くの人々の協力・援助がなければうまくいかないことがわかる。そういう時が熟し、守りをいただき、人に恵まれるために祈りがある。
 たった一人で大きな事業が出来るわけではありません。多くの人の協力が必要となります。しかし時にはたった一人で逆風の中、事を始めなければならないこともあります。その時に祈りが必要となるのです。
 鎌倉時代、天変地変などの災厄がうち続き、戦乱がやまぬいわゆる末法の世にあって、人々の救済に乗り出した日蓮聖人をはじめとする多くの仏教者は、それぞれ一つの道を選び取り、はじめはたった一人で教えを広めていきました。多くの困難に出会った時も、剣や世俗の権力によってそれに打ち勝つのではなく、祈りや信仰の力によって克服していきました。そして、世代を超えてその信仰は広まり、現在を迎えています。「お講巡り」などのお寺参りを通して、鎌倉時代、衆生救済の祈りと共に日蓮聖人がたった一人で始めたお題目が現在大きく広がり、花をつけている様子を見ることが出来ると思います。
 本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話申し上げました。寒さに向かう折、皆様方、風邪などひかれませんようくれぐれもお気をつけください。