おはようございます。やっといい時候になりましたが、いかがお過ごしでしょうか?
 今朝は岡山市平井の日蓮宗妙広寺住職・都守健二がお話させていただきます。

     第3回世界水フォーラム
 マスコミはもっぱら米英の対イラク武力行使をめぐり、クギづけ状態であった、三月十三日の朝日新聞の「日本の『水輸入』、琵琶湖二・三個分」の見出しに戸惑いました。日本は水の豊かな国という先入観を持っていましたから、「命の源はいま」第3回世界水フォーラムの記事は意外でありました。
 トイレや車の洗車にも飲める水を使う生活で、一人当たりの生活用水(みず)使用量は、日に約三百二十リットルと、世界平均の倍に近く、アフリカの五倍に達すると言います。その上に、大量の水を「輸入」していると、総合地球環境学研究所は指摘しているのです。
 それは、日本が輸入している農畜産物や工業製品を国内で生産しようとすれば、大量の水が必要であります。その分の水は輸入して使っているのと同じことと考えるのです。仮想水と呼ばれるこの水の「輸入」量は、年に六百四十億トン、琵琶湖二・三個分ということであります。
 このたび、京都、滋賀、大阪などで開かれた、第3回世界水フォーラムには、百八十二カ国・地域、四十三の国際機関から、延べ約二万四千人が参加したといいます。水問題は世界同時進行で深刻化しているそうです。水不足と汚染で年間四百万人が死亡しているといいますが、二十一世紀を「水戦争」の時代にしないために、三年ごとに開かれる「水フォーラム」に大いに期待したいと思います。 

     自然の恵みに感謝 
 「たとえ一滴の水、一粒の米も功徳と辛苦によらざることなし」と、毎朝食事のときに山内一同『食法』をお唱えしてはいますが、ついつい口先だけで、真味に欠けます。
 そこへゆくと、戦中・戦後の農村社会では、昇る太陽に柏手を打ったり合掌したりしているお年寄りの姿をお見受けしたし、お日待ち、地神様、水神様等、自然の恵みに感謝し、豊作を祈願していたように思います。つまり感謝とか祈りが、生活に溶け込んでいたように思うのです。それが都市化されるにしたがって、水も空気も汚染され、同時に人情までも汚染されて、マスコミに取上げられる事件を見ても、またかと自分も含めて冷淡になっているように思います。
 青少年の問題にしても、家庭の崩壊、学校教育の在り方など、指摘されるのは多々挙げられますが、いずれもマスコミで採り上げられる特殊な事件が、大写しになっているのであって、一般の大多数の青少年は健全ではないかと思ってしまいます。
 それにしても、公共のものを壊すとか、社会道徳に反する行為を平然となすなどは理解に苦しみますが、何か彼らなりの欲求不満があるのでしょう。家庭環境、交友関係などと様々でしょうが、要は本人の自覚以外に期待できないと思います。自覚とは自己の内面の孤独に打ち勝つことより他にありません。
 
     まつげの近きと虚空の遠き
 日蓮聖人は「われら凡夫は、まつげの近きと、虚空の遠きとは見候ことなし。我らが心の内に仏はおわしましけるを知り候はざりけるぞ」と重須殿女房の質問に対しての宗祖のご返事であります。ご真蹟七紙は富士大石寺にあります。
 詳しくたずねれば「そもそも地獄と仏とはいずれの所に候ぞとたずね候らえば、或いは地の下と申す経もあり、或いは西方等と申す経も候。しかれども委細にたずね候らえば、我らが五尺の身の内に候とみえて候。さもやおぼえ候事は、我らが心の内に父をあなずり(あなどり)、母をおろか(馬鹿)にする人は、地獄その人の心の内に候。たとえば蓮のたねの中に花と菓とのみゆるがごとし。仏と申す事も我らの心の内におわします。たとえば石の中に火あり、珠の中に財のあるがごとし」とあります。 
 たとえば蓮の種の中に花と菓が、石の中の火が、珠の中の財などが、それぞれに縁に触れてあらわになってくれば知ることはできるが、「われら凡夫はまつげの近きと、虚空の遠きとは見候ことなし」であります。

     仏性開顕の宗教
 法華経の方便品の中で、お釈迦様のこの娑婆世界に出現された目的、すなわち釈尊の出世の本懐は、一切衆生の心の中にある仏知見、仏性を開示悟入、開いて、示して、悟らし、その世界に入らしめるために、この世に出現したのであると示されています。これを開示悟入の四仏知見といいます。
 いずれにしても、一切衆生の心の中にある仏知見といいますと、まさに「われら凡夫は、まつげの近きと、虚空の遠きとは、見候ことなし」であります。釈尊の弟子の内で智慧第一の舎利弗すら「なおこの経においては、信をもって入ることを得たり。いわんや余の声聞をや。その余の声聞も、仏語を信ずるが故にこの経に随順す、己が智分にあらず」と、譬喩品に示されています。
 信ずるとは疑わないことであります。科学では実験・観察の結果、疑う余地のないものを信ずるのであり、あくまで『己が智分の世界』であります。これに対して、夫婦・親子・兄弟などの人間関係にあっては、相手を信ずることによって、愛情の世界を築くことができるのであります。
 法華経は私たちの仏性を開顕する宗教であります。一切の衆生の仏性を信じて、世界の平和と、この国の環境汚染を考えてみようではありませんか?  
 今朝は岡山市平井妙広寺の住職・都守健二がお話させていただきました。ご静聴ありがとうございました。