おはようございます。今朝は、岡山市箕島、正福寺住職 安井智賢がお話させていただきます。
八月になりまして、お盆の月がやってまいりました。皆様それぞれの家にもお寺さんが来られて、ご先祖様にお経をあげてくださることと思います。お盆の期間というのは、今は亡きご先祖様と、今生きている私たちが、寝食を共にして一緒に過ごす期間であります。そして、私たちが今ここにあるのは、ご先祖様から受け継いだ命をいただき、生かしていただいているということに感謝をし、命のつながり、命の大切さ、尊さを実感し、今一度考え直してみる期間でもあると思います。皆様、どうぞお寺さんが来られましたら一緒にお経をあげ、ご回向していただきたいと思います。
さて、「妙法蓮華経」の中には。古来より法華七喩といって、七つの喩え話によって、わかりやすくその教えを説かれた部分がございます。今回はその中より二つお話させていただきます。
まず一つ目は、法華経五百弟子授記品第八の中に説かれています、衣裏宝珠の喩え(着物の裏に縫い付けられた宝石の喩え)についてお話させていただきます。
ある所に酒好きの男がいました。ある日親友の家に招待され、酒を充分ご馳走になり、ついに酔いつぶれて正体もなく眠ってしまいました。この時、親友は外出しなければならない用事のあることを思い出し、すぐに出発しなければならなくなりました。しかたなく友人ひとりを残して家を出ましたが、かねてより酒癖の悪いことを知っていましたので、まさかの時に役立つようにと、その男の衣の裏に値段のつけようもないほどの高価な宝石を縫い付けておきました。しばらくしてやっと正気にもどった男は、そのまま他国に流浪の旅に出て行ってしまいました。生来怠け者でしたので、ちゃんとした職を得て働くことが出来ず、自分にはそれだけの能力しかないのだとあきらめてしまい、衣の裏にある宝石のことなど全く気付くこともなく、わずかの賃金をもらってその日が暮らせればよいという程度で満足していました。ところがある日、街をさまよっているとき、かつて宝石を縫い付けてくれた親友にばったり出会ったのです。親友はみすぼらしい友の姿を見て、驚くと共に悲しんで、「私は昔、君がもっと安楽な生活を送れるようにと思って、高価な宝石を衣の裏に縫い付けておいたのに、どうしてそれを役立てないのか。それを利用しないで、ただ苦労して自活の方法を求めているのは愚かなことだ。あの宝石を元手にして商売をしなさい。そうすれば貧乏することはないよ。」と教えさとしました。このように言われて、男は宝石のあることに気がつき、自分はもっと金持ちだということを自覚したのでした。
この物語で、親友とは仏様(お釈迦様)のことであり、大慈悲の心をもって、あらゆる人々の衣の裏に、すばらしい宝石を縫い付けてくれているのです。ここでいう宝石とは、物質的な価値というのではなく、私たちが本来持っている仏様の心と智慧、仏になる可能性、すなわち仏性のことです。そして、妙法蓮華経こそが仏性なのです。この仏性は、人間だけでなく、あらゆる生き物、生きとし生けるものすべてに備わっているのです。酒に酔いつぶれた男とは、誰もが仏様から授かっている法華経という宝石に気付かず、迷い苦しんでいる私たちのことです。
私たちは、この法華経という宝石、仏性を磨けば必ず仏になれるのです。その磨き方とは、素直に法華経を信じ、心変わりすることなく、真心をこめて一心に南無妙法蓮華経のお題目をお唱えすることです。
二つ目は、法華経安楽行品第十四の中に説かれています、髻中(けいちゅう)明珠の喩え(髪の毛をたばねて結んだところ《髻‐もとどり》の中にある宝物の喩え)についてお話させていただきます。
お釈迦様のお説きになられた教えというものは、種々様々な内容で、その数も八万法蔵と言われるように実に多いものです。そして、その教えの数々は、いろいろな経典となって今日まで伝えられています。
日蓮聖人は、数ある教えの中から、「妙法蓮華経」こそがお釈迦様の最高の教え、絶対真実の教えであるとし、身命をかけて布教なされたのであります。では、法華経と他のお経では何が違うのでしょうか。なぜ法華経でなければ救われないのでしょうか。
シャカ族の王子としてお生まれになられたお釈迦様は、十九才の時に城を出られ出家なさいました。そして、難行苦行の結果、三十才の時に成道、すなわちお悟りを開かれたのであります。その後、八十才で御入滅になられるまでの五十年間、様々な教えをお説きになられました。法華経の教えは、最後の八年の間に説かれました。そして、法華経以外の様々な教えは、それ以前の四十二年の間に説かれました。法華経以前のすべてのお経は、お弟子や信者の悩みや質問に答える形で説かれた随他意の教え、他の意(こころ)に随った教えです。つまり、お釈迦様がご自分の本心ではなく、相手の意(こころ)に合わせて説かれた教えで、法華経に導くための準備、手立て、すなわち方便の教えなのです。これに対し法華経は、お釈迦様が自ら説き始められた随自意の教え、自らの意に随った教えです。つまり、お釈迦様がご自分の本心、お悟りのすべてをそっくりそのまま余すところなく説かれた真実の教えなのです。法華経に至って初めてお釈迦様の生命は、過去・現在・未来にわたって永遠であり、久遠実成の本仏であることを明かされたのです。そして、大事なことは、仏様の種、すなわち仏になる可能性は、法華経にのみ備わっており、仏種の無い他のお経では成仏できない、法華経だけが成仏できる教えであるということです。この事は、お釈迦様自らが、「四十余年未顕真実」法華経以前の四十余年は、未だ真実の教えを顕わしていないと説かれ、「正直捨方便」正直に法華経以外の方便の教えは捨てなさいと説かれているのです。
このように、法華経が諸経の中でも最もすぐれたものあることを、髻中明珠の喩えをもって教えられました。「たとえば、武力、道徳力ともにすぐれた転輪聖王が、戦いにおいて戦功のあった部下たちの功に報い、様々なほうびを与えるけれども、王の頭の髻の中に隠してある宝物は、最大の戦功者のみに与える。なぜならこれは最も高価なものであるから、みだりに与えたならば周囲の者は大いに驚き怪しむだろうからである。これと同じ様に、仏も諸々の魔王を退治するために、すぐれた弟子たちとともに戦う。仏は弟子たちの戦いぶりを見て喜び、諸経を説いて人々を導くが、法華経は容易に説かない。弟子たちが煩悩を断じて魔王を完全に破したとき、仏は大いに喜んでこの法華経を与え、人々を悟りに導くのである。この法華経は、諸経の中で最も尊く最上のものであって、みだりに説くべきものではないが、今日、汝らのために、いまだかつて説いたことのないこの教えをはじめて説き明かすのである。」
私達は、仏様の御心、教えに素直に随って、最高、真実の教えである、法華経、お題目の信心に益々精進していかなくてはなりません。
今朝は、岡山市箕島、正福寺住職、安井智賢がお送りいたしました。暑い日が続きます。くれぐれもお体に気をつけてお過ごしください。
南無妙法蓮華経 ありがとうございました。