ラジオを聞いてくださっている皆さん、おはようございます。残暑厳しい時期ですが、お元気でしょうね。私は岡山市清輝橋にあります日蓮宗妙福寺の住職で芥田英賢と申します。お寺は電車通りに面していますので、交通量も多く賑やかです。今ごろの時間はよく救急車がサイレンを鳴らして通っているのが礼盤の上で聞こえます。
数年前に外の塀の一部に落書きをされました。みっともないし、景観も悪いので、すぐ消そうかと思いましたが、「いや待てよ、今まで書かれたことがないのに今になって書かれることは何かの知らせではないか、私の気の緩みが何かあり、それをご本尊様に叱咤されているのではないか」と思い、落書きを見るたびに、気を引き締めねば、緩みは何であったろうと気をめぐらしておりました。また、それを見る人は、お寺の壁に書くなんて罰当たりなことをする者がいるものだという思いを持ってもらえれば、私の罪障も少しは削れるかなとも思いました。しばらくの間はお詣りに来る人が「お寺の塀に書くなんてね〜」と言われたり、知人に「落書きされているなあ、何で消さんの」と言われたりしましたので、前述の思いを話しておりましたが、最近はその話も出なくなり、篤信の方が「自分の功徳を積むために消させて下さい、合わせて塀を全部きれいに塗りますから」と言われても、今度は方角のこともあったりで伸び伸びになっておりましたが、今年4月下旬に塗ってもらい、きれいになりました。功徳を積まれた方には感謝しております。二度と書かれないように気を引き締めている心算ですが、少し不安でもあります。
好事魔多しという諺がありますように、順調に行っておりますと、心を煩わすことが起こってくることが多いですね。そのときにどう考えるかによって、対応が変わってきますね。
三通り考えられます。一つは相手を憎む、相手のせいにする。例えば交通事故にしても、自分は交通ルールを守っていたのだから、相手が悪いと、相手がもう少し気をつけていれば事故にならなかったのにと相手だけのせいにして自分は反省しない。
二つ目は仏教では因果応報を説いているのだから、自分に悪いことが起こってきたということは自分が過去に何か悪い原因を作っていたのだろうと反省をする。そして、そのことに負けて落ち込むのではなく、そこを出発点として元気を出す。罪障消滅の為の善因を積む気持ちです。先日、世界身体障害者芸術家協会のハガキ絵の協力依頼がありました。パンフレットを見ると手が不自由なので、絵筆を口にくわえたり、足の指に挟み持って書いたりと、自分の境遇に負けない姿が示されていました。その姿に感動し、1セット注文しましたが、他の団体もありますので、一つ所だけというわけにもいかないのです。少しずつ広く協力させてもらっています。
三つ目には、自分の信仰に対して、ご本尊様や守護の諸天善神が試しをされていると思うことです。どこまで強い信仰を持っているか、試練を与えられているのだと、いよいよ気を引き締めいていく、より強い信仰を持つことです。ジャータカ(釈尊の前生譚)にはその話が多いですね。また昔話に『北風と太陽』という話がありますね。一人の旅人のコートをどちらが脱がせられるか賭けをして、北風は激しい風を吹き付けますが、旅人はいよいよ力をこめてコートを脱がされないようにしたので、北風は諦めた。いっぽう太陽は暖かい陽射しをふりそそいで脱がしたという話ですね。北風は試練であり、強い信仰によってそれに負けなかった姿であります。太陽の暖かさは、ご守護を受けて、悦んでいる姿ということが出来ます。
信仰の善悪は、何によって判断することになるのでしょう。全ての魂が幸福になる教えが最高といえます。それを実行するのが正しい信仰であると確信しています。
ブランド商品には必ず偽物が出てくる。見た目には素人には、関心の薄い者には別に関係ないように思えるけれども、一度体験するとその弊害を感じることになります。特に宗教の偽物となるとよく似ている部分はあるが、肝心の部分が大きく違っているのです。日蓮大聖人は「魔が興らなかったら正法と知ることは難しい」とおっしゃっておられます。人口の5%といわれる各方面に進出している偽ブランド団体の弊害は各所に出ています。先日ある海外援助団体の講演会の話では、すぐにビザを取って行ってあげたいのに、何かと条件を付けられ、嫌味をされ遅くなりイライラしたことがあると話をしていた。その事務に当たったのが偽ブランド団体の信者であるそうな。報道機関は、大きなスポンサーでもあるこの団体の恥部は、余程のことがなければ、あまり報道しないので知る人は少ない。
「病によりて道念は興り候ろうか」と日蓮大聖人がおっしゃっておられるように、私達は災難等困ったときには「神頼み」的な信仰が芽生えてきますが、この時に最高のすばらしい信仰に縁をもてた人は幸福であり、偽ブランド等に縁を持った人は不幸であります。
必ず因果応報は現れるので、災難に遭った時こそ自分の信仰が試されている、捨て鉢になるか、向上して良い方へ進むかです。
私は人生相談で運勢観定もやっています。相談者の一例ですが、母子家庭で子どもはリストラされて無職、自分は病弱で働けない、どうなるだろうか、息子に就職があるだろうかとの相談でした。日蓮宗の九識霊断法という方法で観定すると、可能性はあるがお題目のエネルギーが不足している、早急に補充しなくては可能性を確実にすることは難しい、との教示です。仏壇に線香を立てて毎日「南無妙法蓮華経」と唱えてエネルギーを補充し、諸天善神に加護を祈りなさい、未だ不十分であっても熱意と決心、誓いがあればご守護をいただけて、就職可能であると話しました。相談者は息子は仏壇に手を合わせたことが無い、そんなことを言ってもするだろうかと心配していましたが、とにかく息子さんに伝えなさい、と言って倶生霊神符というお守りも授与して別れました。次に会った時に「どうでしたか」というと「不思議に毎日手を合わせて一心に祈っており、面接をしましたら、技能を知っている面接官だったので無事就職ができました。その後もずっとお題目を続けています。仕事にも行っています。これで自分も安心です。」と言っておりました。
「全てを善知識(自分を向上させる正しい信仰)にしなさい」と日蓮大聖人はおっしゃっておられます。日蓮大聖人は四大法難といわれる生命にかかわる迫害も自分の信仰の正しさを証明してくれるもの、法華経に説かれていることを体験しているとして、相手に感謝しておられる。いよいよ強く深い信仰へと進められて行かれたのであります。
そのように強い信仰を持っていれば、法華経には「天の諸の守護神が身に随って護ってくれるので大事には至らない」と説かれています。顔なじみの者にはそのことが顕著です。
法華経を読誦し、正しいお題目をしっかり唱えて、正しい信仰生活に励み、安心した生活を致しましょう。
今日のご無事をお祈り申し上げます。
南無妙法蓮華経