おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
今日、十一月十三日は、私ども日蓮宗では特別な日です。日蓮聖人のご命日の法要を営む日だからです。日蓮聖人は今から722年の昔、西暦1282年、当時の年号で弘安五年旧暦の十月十三日、辰の刻と申しますから、午前8時頃、現在の東京大田区は池上、御信者池上宗仲の屋敷にて、六十一年の御生涯を静かに閉じられました。建長五年、1253年、4月千葉県の安房小湊清澄寺において、昇る朝日に向かってお題目を唱えて以来、大難は四ヵ度、小難は数を知らずの法難に継ぐ法難の御生涯を送られましたが、それはお釈迦様の残された最も優れた教えである法華経を一切世間の人々に広めるための受難の日々でありました。そして現在、日蓮聖人が只一人で唱え始めた「南無妙法蓮華経」のお題目は、多くの人によって唱えられるようになりました。その御恩に感謝するための御命日の法要が、「御会式」あるいは「お講」と呼ばれ、岡山市内では月遅れの十一月十三日を中心に営まれます。日蓮聖人が亡くなった時に季節はずれの桜が開いたという故事にちなんで「会式桜」と呼ぶ桜の花など、きれいな飾り付けをして法要を営みます。また、十三日には、檀家さん信者さんが、市内の日蓮宗寺院を順番に参拝して回る習慣「お講巡り」も古くからあります。行く先々のお寺でお茶やお菓子などの接待を受けながら、気の合う仲間や個々人で晩秋の一日をお寺巡りをして過ごします。のんびりとした風情が受けてか、お詣りの方も次第に増えて参りました。
七百数十年にわたって綿々と続いている行事がある一方、世間一般の変化の早さには目を見張るものがあります。一目でわかる変化もあれば、なんだか以前と変わってきたなあと思える些細な変化もあります。毎日車を運転していても以前と変わってきたなあと思われることがあります。例えば、細い道を走っていて対向車が来た時、以前はどちらかがすれ違いやすい手前で止まって、お互いに道を譲り合っていたのに、道を譲らないでどんどんつっこんでくる車が増えてきました。こちらも道を譲ってばかりでは一向に前に進めず行列もできますから、つい無理につっこみます。ひやっとしたり、イライラすることも多くなってきました。相手に迷惑をかけないようにと気配りのある運転が少なくなって、自分の思うようにしたい、相手のことは考えない、自分しか見えない運転が増えているように思われます。こういった風潮の蔓延は、こと車の運転だけに限らないでしょう。
実は法華経の中に、自分のことしか考えないという過ちに気付くことにより、本当の悟りへと目を開くお釈迦様のお弟子が登場します。舎利佛です。舎利佛は、「知恵第一」と呼ばれる頭の良いお弟子さんですが、自分の悟りの完成ばかりを考えて、他の人を救う、自分と共に他の人を育てようという考えを持っていなかったため、どうしてもお釈迦様のお考えを理解することができなかったのです。
ところが、法華経の第二章「方便品」に至ってお釈迦様の本当のお気持ちとは、全ての人に佛の知恵を得させて、仏の道に入らせること、あらゆる人々を仏に至るただ一つの乗り物に乗せることであることにはっきりと気づきます。自分だけが救われようとする今までの自分の姿が、救われない原因であることを理解し、仏の本当の悟りの世界へと入ることができたのです。
この舎利佛の姿をもっと分かりやすい形で描いたのが、宮沢賢治の童話「セロ弾きのゴーシュ」ではないでしょうか。
ゴーシュは町の金星音楽団のセロ弾き、今で言うチェロ奏者です。でも、あまり上手でないため楽団の楽長にいつも怒られてばかりでしたから、毎晩遅くまで自分の家でセロの練習をしました。
ある晩、熱心に練習をしていると三毛猫がやってきてぞんざいな態度で「シューマンのトロメライを弾いてごらんなさい。きいてあげますから。」と言います。
三毛猫の生意気な態度に怒ったゴーシュは、「インドの虎狩」という別の曲を嵐のような勢いで弾いて猫をのたうち回らせます。
翌晩練習していると今度は、カッコウがやってきて、丁寧に「ドレミファを教えてください。」と頼みます。ゴーシュは仕方なく練習につきあいますが、繰り返し繰り返し練習をするものだから、最後には根負けしてしまい、カッコウを追い出します。
次の夜は狸の子どもがやってきて、小太鼓の練習に付き合うことになります。一緒に練習しているうちに、狸の子どものおかげでゴーシュはセロの2番目の糸の調子が悪いことに気づきます。
次の晩、明け方近く、野ねずみの親子が戸を叩きます。野ねずみの母親は、「この子が死にそうなので、先生お慈悲に治してやってください。」とゴーシュに頼みます。「おれが医者などやれるものか」とゴーシュは訳がわからず断ります。野ねずみは、「このあたりの動物は、ミミズクもウサギも、病気になるとみんな先生のおうちの床下に入って、セロの演奏を聴いて治しています。どうぞこの子も助けてください。」と言います。そこで、ゴーシュが子ねずみをセロの中に入れて曲を弾いてみると、子ねずみはすっかり元気になって、セロから出てきました。野ねずみ親子は喜んで帰りました。
翌晩、金星音楽団は町の公会堂で演奏会を行いました。大成功でした。聴衆の拍手は鳴りやまず、ゴーシュはアンコールの独奏を任され、楽長や仲間たちから称賛を受けました。
最初は、自分の演奏を上達させることだけを考えて練習していたゴーシュが、馬鹿にしていた動物たちと毎晩練習を続けるうちに、瞬く間に演奏の技量が上がり、動物たちとの協演が、実は思いもかけず他の多くの動物たちをも癒していたことに気づきます。
そこには、自分のためだけでなく、ほかのものと共に歩むとき、初めて自分自身も成長することができる、というメッセージがあります。
作者宮沢賢治は熱心な法華経の信者でした。賢治は法華経の教えを童話という分かりやすい形を使って多くの人に伝えようとしました。
セロ弾きのゴーシュは宮沢賢治が描いた舎利佛の姿ではないでしょうか。自分の中の悩み・苦しみにのみ目を向け、自分だけの悟りを目指していた舎利佛が、他の人を救い、育てる菩薩の道に気づきます。私たちも、自分のためばかりでない、他の人や他の生きとし生けるものと共に歩む姿の中にこそ、幸せがあるのだと改めて考えたいものです。
本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話申し上げました。