おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
 今日は、十一月十二日。岡山市内の日蓮宗寺院では、明日の「お会式」の準備で大わらわです。「お会式」は「お講」とも申しますが、日蓮聖人のご命日に営む報恩法要です。岡山ではご命日の旧暦十月十三日ではなく、月遅れの新暦十一月十三日に行うことが多く、今夜はそのお逮夜にもあたります。日蓮聖人は今から723年の昔、当時の年号で弘安五年、西暦1282年、現在の東京大田区は池上の地にて、六十一年の御生涯を静かに閉じられました。聖人が亡くなられました時には、秋にもかかわらず桜の花が咲いたというお話が伝えられており、今でも「お会式」の法要には「会式桜」と呼ばれるきれいな桜の造花の飾り付けは欠かせません。
 話はちょっと横道にそれますが、この秋に開く桜のエピソードは日蓮聖人の御遺徳を讃えるためのお話なんだろうと私は思っていました。しかし、今年の経験からこれは実際にあった話なのかもしれないと思い始めました。というのも、今年の十月、私どものお寺の桜が時ならぬ花をつけたからです。原因は台風でした。九月の初め、日本各地を襲った台風14号の接近に伴い、岡山でも強い雨風が吹きました。お寺の桜も強風に煽られて枝葉が傷んでしまい、半分以上の葉が落ちてしまいました。台風が通り過ぎた後は、また元通りの暖かい日が続きました。桜は葉を落としてから、暖かい日が続いたので、どうやら春が来たと勘違いをしたと見えて、花を咲かせたようです。ひょっとすると、日蓮聖人が亡くなられた時も、同じようなことがあったのかもしれません。
 さて、この「お会式」、「お講」は日蓮聖人の教え、お題目の輪が拡がってきたことへの感謝の法要でもあります。ですから、そのお寺の檀信徒だけでなく、日蓮聖人の教えを受け継ぐ多くの檀信徒の方々がお互いのお寺を巡る、巡拝・巡礼をする行事としても伝えられてきました。現在でも十三日に、檀家さん信者さんが、市内の日蓮宗寺院を順番に参拝して回る「お講巡り」として残っています。行く先々のお寺でお茶やお菓子などの接待を受けながら、気の合う仲間や個人で晩秋の一日をお寺巡りをして過ごします。のんびりとした風情が受けてか、お詣りの方も次第に増えて参りました。
 七百数十年にわたって綿々と続いている行事がある一方、世間一般の変化の早さには目を見張るものがあります。殊にテレビ、新聞といったマスメディアの話題は猫の目の如くどんどん変わっています。「人の噂も七十五日」と昔は言ったものですが、現在ではせいぜい「人の噂は三四日」といったところでしょうか。そんなマスメディアの中でも変わらぬ人気を持っているスポーツマンの一人が、アメリカ大リーグ、ニューヨークヤンキースの松井秀喜選手ではないでしょうか。松井選手はヤンキースの中軸を任される野球選手としての卓越した能力はもちろんのこと、その素直で謙虚な性格でも愛されているように思います。
 以前テレビで放送されたドキュメンタリー番組の中でこんな信じられないようなやりとりがありました。伊集院静という作家が松井選手に尋ねます。「君は他人の悪口を言わないと聞いたけど、本当かい?」松井選手は「はい、僕は中学校二年生以来、他人の悪口を言ったことがありません。」と答えました。他人の悪口を言うのが良くないことであることは、誰でも知っています。悪口は自分が言えば、相手もまた悪口で返してくるものです。お互いが傷つき合い、いやな思いをします。でも悪いとわかっていながら、つい出てしまうのが悪口です。松井選手はそれを中学二年生以来言っていないと、言い切ります。中学二年生の時にどのようないきさつがあったのかは伺い知れませんが、何かの転機があって、松井選手は努力して他人の悪口を言わないようにしているのだと思います。彼のように常に脚光を浴びる立場にある人ならば、周りから様々なことも言い立てられてきたはずです。にもかかわらず、松井選手は他人の悪口を言わないで通してきています。努力や忍耐とともに自分を高みにおいて、相手を批判するような慢心を離れた謙虚さが感じられます。また、相手を思いやる心もあって初めて出来ることでしょう。
 ここで思い出されるのが、お釈迦様がブッダガヤーで悟りを開かれる際のエピソードです。ブッダガヤーの菩提樹の下、悟りを開かれるため禅定に入られたお釈迦様を悪魔たちが様々な幻影を見せて邪魔しようとします。大洪水や女人の姿、欲望・快楽・名誉といったもので妨げようとしますが、お釈迦様には通用しません。そこで最後にはお釈迦様に対して毒矢を射かけるのですが、毒矢は途中ですべて花びらに変わり、お釈迦様の頭上に降り注ぎます。お釈迦様が毒矢を花びらに変えられたこのご行為は、我々凡夫が他人から嫌な言動を受けたときに、「なにを!」と怒って同じ言動で返すのではなく、一片の花びらとして受けとめ、笑顔・温顔・愛語(愛情のこもった優しい言葉)で返す努力をせよ、という教えを示されているものだと思います。毒矢を花びらとして受け止める力は、実は誰もが持っているものですが、努力や忍耐・信仰・修行によって磨いていかなければならないものでしょう。
 日蓮聖人もご法難につぐご法難のご生涯を歩まれましたが、自らを迫害した相手を決して恨んだりはなさいませんでした。日蓮聖人の書かれた『種々御振舞書』という御書の中に「今の世間を見るに、人をよく成すものはかたうどよりも強敵が人をばよく成しけるものなり。」とあります。現代語に直すと「今の世間を見ても人を立派にするのは、味方よりもむしろ強敵がその人をよくするものです。」という意味です。また日蓮聖人は、聖人を殺害しようとした東条景信等との出会いによって、自分自身が法華経の行者となることができたと喜んでいると記されています。相手の言動をすべて花びらとして受け止める姿を日蓮聖人の中にも見ることが出来ます。
 私たちも相手からの毒や悪口等を花びらとして受け止め、自らもほかの人々に対して悪口やねたみ、恨みといった毒を出さないよう努めて行くことが出来たならば、娑婆即寂光、私たちのこの世界が少しでも浄土に近づくのではないでしょうか。
 本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話申し上げました。 
 これから寒さに向かう日々が続きます。お風邪など召されませんようお気をつけください。