お早うございます。岡山市上中野にあります、宗善山正福寺住職、稲垣宗孝でございます、朝の一時をお借りして、お話をさせて頂きます。
何時の時代でも、人命尊重、と言われ続けて来ましたが。その声に反して、殺人、虐待、自殺等の忌まわしい事件が続発しています。
学校でも、家庭でも、社会でも、命を大切に言われ続けながら、何故、これに反する様な事件が多発するのでしょう。一億二千万人もの人々がいれば、凶悪犯罪を犯す者も幾人かは出るだろうと言う見方もあるかも知れませんが、それだけではない、社会の底辺と言いますか、根っこに、そのような人々が出やすい要因があるのではないでしょうか。
子供達の好む玩具のゲーム遊びの大半は戦いを取り入れ、勝者が敗者を倒していく、殺していく物だそうです。テレビドラマでもわずか一時間か二時間の間に殺人から逮捕、裁判までをあつかった物が多いようです。人間の心の中には、戦争や、暴力に興味を感じる部分もあるようですが、これらに加え、青少年の欲望を増すような社会の風俗も拡大しています。その要因は多種、多様ですが、一方で、社会が豊かになり、人間の寿命が延び、死にたいしての苦しみ、悲しみ感覚が薄まったことが、かなり大きな比重を占めているのではないでしょうか。
お釈迦様は人生には『生老病死』憂患(うげん)、憂いがあると仰せになりました。生まれることは、やがて老い、病を得て死ぬ事だと言うことです。東京大学の解剖学教室の教授であった養老孟司さんが、書籍の中で、まだまだ世の中には、解らないことがたくさんあるが、はっきり解っている事の一つに人間は生まれれば必ず死ぬことであると言っていましたが、私は、その時、お釈迦様のようだと思いました。すると、その後半の部分で、自分の書いたものはお経によく似ていると言っていましたので、思わず苦笑すると共に、さすがに鋭い指摘だと思いました。
それでも、私の様に、六十を過ぎた年齢になりますと、人生に『生老病死』の憂いがあると言うことも、幾分かは解るような気持ちになりますが、子供や若者は別です。
私は保育園の園長もしていますが、保護者の集まりで、人は生まれると必ず死ぬ、生まれたその時から墓場に向かって歩いている。その間に老いと病がある等と言いますとどうでしょう、いやなことを言う園長だ、この保育園は縁起が悪いと思われかねません。だから、決してストレートでそのような事は言わないように心がけています。
考えてみれば、今も、昔も、子供や、若い方々には、生(生まれる・いきる)は光で死は影です。多くは光を求めて集まり、進もうとします。その中には求めて得られる豊かさ、欲望もあれば、求めても得られない豊かさ、欲望もあるでしょう。しかし、若さ故、共に光りと感じ求めようとします。これは、今も、昔も変わらないと思います。
しかし、異なっているのは、今の子供や若者は、光の部分ばかりに関心を持つ環境の中で生活しているのに比べ、昔の者は影の部分にも触れる機会があったと言うことです。
即ち、現代は病気になれば、入院し家庭で看護することは少なくなりました。亡くなる時もベット、そして、病院の霊安室から葬儀場に直行する場合も少なくないようです。次第に家庭から病人や死者の姿がなくなりつつあります。
一昔前までは、子供や、若者は成長する過程で、家庭の中で病人と同居し、親が看護する姿を見ていました。病人の愚痴、苦しみ、反対に、看護してもらう感謝の様子に触れてきました。看護する側の苦労、時には苦情、それを乗り越えた慈愛があることも感じてきました。やがて、臨終の時が来れば、遺族、町内の方々の関わりの中で、営まれる葬儀と、喪中の期間を通して、人としての生命の重さを感じたはずです。
光だけを求め続けようとする子供や若者にも、生を謳歌するだけではなく、人生には光とともに影もあると言うことを感触として受け止める環境があったことが、成長する過程において挫折しそうになったった時には、それを乗り越える忍耐力に、あるいわ、人生には、求めても求めることのできない物があるという良い意味での諦めに。又、病床にある家族の看護を通した苦悩と家族愛は青少年の非行のブレーキにもなったでしょう。
お釈迦様の教えに『常に悲観を抱いて、心遂に醒悟(しょうご)す』という言葉があります。父の死を通して、悲しみの中から、子供達が心の深い所にある慈愛に目覚めると言うことです。 人生は、喜怒哀楽、悲喜こもごもだといわれますが、これらが織りなす環境の中で、なお、未来を生きようとするところに、バランス感覚を保った人としての成長があるように思います。
しかし、現代は前述しましたように、生まれるのも産院。病になれば病院。亡くなれば葬儀に昔ほど遺族や近隣の方々の関わりが薄くなりました。家族の代わりに他人が仕事ととして関わることになり、家族の共同作業の場は次第に少なくなっています。
さりとて、時代の進む中で、昔の環境に逆戻りはできません。ならば、私達はこれからの生活の中で、いかにして無常感を通した家族愛を深めていけば良いのでしょうか。
私は今こそ、親子、家族という血縁の意味を再吟味することだと思います。考えてみれば、両親に一番近い存在として私があります。私の中には、両親が遺伝子として存在しています。その両親にも又両親があります。過去から受け継がれた先祖が自分にも内在していると考えれば。生死の繰り返しの中で自分が存在している重みが解るはずです。もつと広く考えれば、私達が今日生きていけるのは、親や家族だけではない、無数の人々との関わりがあるからです。先祖の方々も多くの人々との縁の中に生きてきました。私達の身体や心は長い時間と広くは宇宙の中で生かされているとも考えられます。
だからこそ、『お釈迦様は生まれた人々は何れ死ぬ事を考えよ』そして、『子孫にその命が受け継がれるよう生きている間に精進せよ』とも仰せになりました。命のつながりに目覚める時、人々は大いなる安堵に包まれる、これが、成仏への入り口でもあるとも仰せになっています。
家庭で、肉親の病、死への関わりが少なくなっても、その分、家族で肉親の情愛を確かめるよう努めて欲しいものです。仏壇の前に正座して、先祖との対話を心がけて欲しいものです。
例え生死の無常感に接する環境が少なくなったとしても、家族間の確かな絆と慈愛そして、先祖への報恩が、社会の安定と礼節を取り戻す事に繋がると思います。
仏教では、現代を末法、末世だと指摘します。末世、世も末だということは、物が貧しくなることでも、寿命が短くなることでもありません。人間の心が荒廃し、社会の秩序、礼節が乱れて世の中が混乱することです。末法の世を仏様の知恵で生きたいものです。
宗善山正福寺住職稲垣宗孝でした。ご静聴感謝いたします。
合掌