皆様おはようございます。本日も早朝から仏教アワーを聞いてくださいまして、まことにありがとうございます。私は大原美術館で有名な倉敷美観地区の中にあります、本栄寺という日蓮宗のお寺から参りました、安井智晃と申します。つたない話ではありますが、しばらくの間お付き合いをお願いいたします。
 さて、先月のある日、私の妻の父の法事が、妻の実家の菩提寺で営まれました。いつもでしたら私が着物を着て、お檀家さんの前に座り、導師としてお経を唱えるのですが、その日は檀家の一員として、黒い背広を着て、お坊さんの後ろでお経をあげてもらう立場になったわけです。このような立場になることは、普段でしたらめったになく、非常に新鮮で、はじめは少し落ち着かなかったのですが、時間が経つにしたがっていろいろなことに気がついてきました。
 まず一つ目は、「お寺というところは寒いところだなあ」ということです。お寺でする法事のことを「あげ法事」と言いますが、普段私が自分のお寺でするあげ法事で、自分が着物を着て檀家さんの前に立つ時にはあまり気にならなかったのですが、してもらう側の人間としてお寺の本堂に座っていると「真冬のお寺とはこんなにも寒いところなのか」と驚いてしまいました。
 二つ目は、「お経とは難しいものだなあ」ということです。これも自分がお坊さんとして檀家さんの法事をするときには気にならず、「何ページから読むのでご一緒にお唱え下さい」とごく気楽に言っていたのですが、その日は宗旨が違うお経ということもあって、小さな声でついていくのがやっとで、周りの人からも「お前は本当に坊さんなのか?」という目で見られていたような気がします。
 そして、気がついたことの三つ目は「お坊さんとは、どうも近づきにくい存在だなあ」ということです。そのお寺の和尚さんが特にそうだったという訳ではなく、ましてや自分もそのお坊さんの一人なのですが、それでも何か気軽に近寄れない雰囲気というものを感じてしまいました。
 この三つのこと、「お寺は寒いところだなあ」「お経は難しいなあ」そして「お坊さんは近寄りにくいなあ」ということ、このことは普段私がお坊さんとして檀家さんの前に座るときには気がつかなかったことです。しかし、立場が全く逆になって、檀家の側からお寺とお坊さんというものを見たときに初めて気がついたことです。なかなか新鮮な感じがしたと同時に、ある衝撃の事実にも気がつきました。それは、「私がそう思った」ということは「いつもは私もそう思われているかもしれない」ということです。もちろん私自身はそんなことは思っていませんが、でも周りの人はそう思っているかもしれない、このことはショックと同時にいろいろなことを考えさせてくれました。「自分が思っている自分」と「周りから見た自分」。この二つは決して同じではなく、それどころかかなりの違いがある。皆さんもこんな思いをしたことはありませんか?ではどちらが本当の自分により近いのか?おそらく両方とも間違いではないでしょうが、周りから見るほうが客観的なぶん、より真実の姿に近いような気がします。だから、もし自分の本当の姿が知りたければ、周りの人に「私ってどんな人?どんな風に感じる?私のことどう思う?遠慮なく正直に言って!」とお願いすれば見えるはずです。しかし、現実にはそんなに簡単なことではなく、たとえば聞かれた人も「あなた本当はけちで見栄っ張りで存在感もないわね」と思っても、まさかそのまま口にすることはないでしょうし、まず第一、そんなことを周りに尋ねる勇気がある人はそうそういないのではないでしょうか。私はとてもそんなことは怖くて聞けません。だから、自分で持っている「自分のイメージ」が「本当の自分の姿」だと思っているわけですが、それも、先ほどのお寺とお坊さんの話のように、現実にはかなり違うかもしれません。でもその違いを他人に尋ねる勇気もない、そのうち「自分のもっているイメージが本当の自分」と思い込むようになっていくかもしれません。
 『法華経』というお経の「方便品」というところに、「諸法実相」という言葉があります。「諸法」とは「もろもろの法」という字で、「あらゆる物事」という意味。「実相」とは「真実の姿」という意味。つまり「諸法実相」とは「あらゆるものの真実の姿」という意味です。そして、この言葉の後ろに「十如是」というものが続きます。「十」は数字の10。「如是」とは「かくのごとし・このような」という意味で、先ほどの「諸法実相」と合わせて「あらゆるものの真実の姿は、このような十の側面を持っていますよ」という意味です。その「十如是」、つまり「物事の持つ10の側面」の一つ一つをご説明する時間はありませんが、このお経文が言わんとすることは、物事や人を判断する時、一つの側、一つの面から見えるもので判断すると、本当の姿を見誤るかもしれませんよ、ということではないかと思います。
 先ほど私は「自分が思っている自分」と「周りから見た自分」、この二つは決して同じではなく、それどころかかなりの違いがあるかもしれないと言いましたが、「自分という人間」一つとってみても「自分がイメージする自分自身」は、「自分のイメージ」という一つの側面からしか見ていないので、それが「本当の自分の姿」と思うのはどうでしょうか。もしかすると、必要以上に自分を過小評価していつも周りの目を気にしてオドオドとしてしまい、自分自身を卑下することになったり、また逆に自分を過大評価しすぎて「鼻持ちならないいやな奴」になってしまい、その勘違いが、時には人間関係のトラブルへとつながっていくかもしれません。これもすべて「自分」というものを「自分がイメージする自分自身」、つまり一つの側面からしか判断しないことが原因ではないでしょうか。
 お経には「十如是」という「10の側面から見て、物事を判断しなさい」と説かれていますが、10は無理としても、せめて二つの側面、つまり「自分がイメージする自分自身」そして、「外から客観的に見た私」という二つの側面から見るようにすれば、少しは「実相」つまり「本当の姿」が浮き上がってくるのではないでしょうか。そうすれば、自分自身を過小評価しすぎてオドオド・クヨクヨと悩むことも、過大評価しすぎて、周りから浮き上がって孤立することも少しはなくなるのではないかと思います。私は、妻の父の法事で、お坊さんの私が「自分とは違うお坊さん」を外から客観的に見ることにより、少しだけ、普段の本当の自分の姿が見えたような気がしました。
 早朝から、私のつたない話に最後までお付き合いくださいまして、まことにありがとうございました。この話が皆様方にとって何かの参考になりましたら幸いです。