おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
だんだんと秋が深まって参りましたが、それとともに私ども日蓮宗では「お会式」の季節を迎えます。「お会式」とは「お講」とも申しますが、宗祖日蓮聖人のご命日に営む報恩法要のことです。日蓮聖人のご命日は旧暦の10月13日ですが、岡山市内では月遅れの新暦11月13日に行うことが多く、今日はその前々日にあたります。
日蓮聖人は今から700余年の昔、弘安五年、西暦1282年、現在の東京都大田区池上の地にてご入滅になりました。この地にあります池上本門寺では毎年10月に大規模なお会式法要が営まれ、10月12日のお逮夜法要には一晩で数十万人の参詣者が集まります。今年は私も池上本門寺のお会式にお参りしましたが、ご命日とは言いながら静かなしめやかなものではなく、大変賑やかなものです。池上の駅から本門寺までの道路は夕方から歩行者天国となり、道沿いには数百の露天の店が出ます。その参道を連と呼ばれる全国各地から集まったご信者のグループが桜の花で飾った万灯をかかげ、纏を振って、調子よく団扇太鼓や鉦を叩きながらお題目を唱え、本門寺の大堂まで練り歩きます。それが夕方6時半頃から11時頃まで続く、いわば大きなお祭りになっています。
岡山市内では「お会式」にそのような連が出ることはありませんが、各お寺で工夫を凝らした飾り付けをします。「会式桜」と呼ばれる桜がたくさん使われますが、それは日蓮聖人が亡くなられた時に、秋にもかかわらず桜の花が咲いたという故事に基づいています。また、岡山市内の「お会式」で特徴的なのは、11月13日の「お講巡り」です。この日は檀信徒の方々が日蓮宗の市内寺院をちょうどお遍路さんのように順番にお詣りをしてまわります。各お寺ではお接待の準備を整えていますので、お茶やお菓子の接待を受けながら、晩秋の一日をお寺巡りで過ごします。現在では「お講巡り」専用の御朱印帳も用意されていますので、各お寺の御朱印をいただきながらお詣りし、17か寺の御朱印がそろうと参拝の記念品がいただけるようになっています。のんびりとした風情が受けてか、次第にお詣りの方も増えているようです。
さて、実は日蓮宗では今年10月にも大きなイベントがありました。10月7日、岡山駅西口の岡山コンベンションセンターで開かれた「環境・平和・いのち」をテーマとした祈りの祭典「いのりんぴっく岡山」です。「いのりんぴっく」とは聞き慣れない言葉だと思いますが、ホールで法要やコンサート・展示を行い、広場ではフリーマーケット・出店や屋台も出る一種のお祭りです。幸い当日はお天気に恵まれ、大勢の老若男女が集まり大盛況でした。
中でも人気があった催しが、上原まりさんの筑前琵琶コンサートです。上原まりさんは元宝塚の女優さんで、筑前琵琶の代表的奏者でもあります。事前に整理券を配ったのですが、配布前から行列ができ、すぐに整理券はなくなってしまいました。午後2時の開演でしたが、その前のイベントが少しずつ遅れたために、10分遅れての開演となりました。ホールの入り口前にはもう長蛇の列ができています。皆さん、整理券を手に握り、開場遅しと待ちかまえています。整理券を持っている人は席が確保されているのですが、完全自由席なので早く入って良い席を取ろうと虎視眈々と狙っている感じです。やっと舞台の準備が整い、開場となりました。長蛇の列は先頭から一気に会場へと流れ込みます。入り口で整理券を受け取るのですが、大変な押し合いへし合いとなりました。列の前のほうの人は我先に入ろうとしますし、後ろの人はその様子を見て後ろから押し出そうとします。受付あたりでは、押しくらまんじゅう状態で「早よう進まんか」と声を荒げる人もいれば、「痛い、痛い」と悲鳴をあげている人もいます。私も会場係をしていましたが、ちょっと危険な状態でした。いくら「危ないですから、押さないでください。」と声を張り上げても、いっこうに聞く様子がありません。バッファローの群れに必死に声を掛けているようです。
お年寄りの方も多く、杖をついている足の悪い方もいらっしゃいますから、もし将棋倒しにでもなったら大変なことになります。窮余の策として、私たちが列の中に割って入り途中から一端列を止めて、なんとかスムーズに行列をさばき、無事に観客を会場に迎えることができほっとしました。
後から先輩上人にこの話をしますと、「それは声のかけ方があまり良くなかったのではないか。」と言われました。押し合いへしあいになっている時に「危ないですから、押さないでください。」と言ってもなかなか止まるもんじゃない。その時に大きな声で、「皆さんの両手は何のためについているのですか。人を押しのけ人を押し倒すためについているのですか。そうじゃないでしょう。困った人がいれば、どうぞどうぞと差し伸べるためについている手です。南無妙法蓮華経のお題目を唱えるときにあわせる手です。我が我がの心より、どうぞどうぞの心持ち。お手を納めてゆっくりとお進みください。」とこう言えばいいのではないか、普段からお題目の手を合わせていらっしゃる方が大勢集まっているのだから、はっと気がつくはずだとの指摘でした。なるほどとは思いましたが、果たしてその時、先輩上人のおっしゃるとおりうまくいったかどうかはわかりません。しかしながら、確かに先輩の話の中には教えがあります。
日蓮聖人がご信者に宛てられた手紙の中に「法華経と申すは手に取ればその手やがて仏に成り、口に唱ふればその口即ち仏なり」との一節があります。「法華経を手に取ったならばその手は仏になり。法華経を口に唱えたらその口は即ち仏である。」とのお示しです。
しかし、法華経を取ったその手が人を押しのけ、その口が人を悪し様にののしったりしていれば、その手や口は仏になったとは言えません。法華経を取ったその手は、倒れそうになっている人を支え、助けてあげ、法華経を唱えた口は、「大丈夫ですか、どうぞ先に行ってくださいよ。」と声を掛けたときに初めて仏となるのです。法華経を手に取り、読んだだけでは十分ではありません。法華経の教えが私たちの行動に表れ、人の役に立った時に初めて私たちは本当に教えを受け取り、妙法蓮華の花が私たちの心の内に開くのです。多くの人が仏さまの教えを確かに受け取り、その教えが一人一人の行動として現れたならば、娑婆即寂光、この世界は素晴らしい世界となることでしょう。
本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話し申し上げました。
これから寒さに向かう日々が続きます。お風邪など召されませんようお気をつけください。