皆様おはようございます。本日も早朝から仏教アワーをお聞きくださり、まことにありがとうございます。今朝は、倉敷美観地区にあります、日蓮宗・本栄寺の安井智晃がお話させていただきます。しばらくの間お付き合いください。
 さて、先日まで一年ほど私の寺の本堂に一人の方のお骨をお預かりしておりました。亡くなったのはまだ若い女性で、若いご主人と小さな子供を二人遺しての急逝でした。ご主人の実家が分家で、まだお墓もないということで、しばらくお寺でお骨をお預かりしておりました。この間、遺されたご主人は、仕事の合間に頻繁にお寺に来てお参りをされました。夏はうだるような暑さの中汗だくになりながら、冬は火の気がなく底冷えのする本堂で、一人黙々とお経を読む姿を何度も何度もお見かけしました。
 ある日、お参りを済まされた後話をしておりましたら、ご主人が私にこのようなことを言われました。「和尚さん、私はお寺に来て妻のお骨の前でお経をあげていますが、自宅の仏壇でも位牌に毎日お経をあげています。でもその日その日によって、お骨や位牌の雰囲気が違うような気がするんです。上手くは言えないのですが、私がとても悲しい思いでお経を読むと、お骨や位牌になってしまった妻もとても悲しんでいるような気がします。私が家のことや子供のことで悩んでいらいらしている時には、妻もいらいらしているような気がします。反対に、子供たちと一緒に穏やかにお経を読むと、妻も穏やかに嬉しそうにしているような気がするんです。気のせいかもしれませんが、私は確かにそう感じます。」
この話を聞いたとき、私はとても厳粛な気持ちになりました。そしてこのご主人が本当に真心をこめて、ご自分の亡き妻のためにお経をあげていたんだなあということを改めて感じ、同時に僧侶の自分はここまで真心をこめてお経をあげているだろうか、と反省させられました。このようなことは皆様方もたまに感じることがあるのではないでしょうか。
私の寺では毎朝六時半ごろから朝のお勤め、朝勤を行っていますが、その日その日で仏様のお顔が違って見えるような気がします。たとえば、少し寝坊をしてしまい「早くしなきゃ」とイライラした気持ちで仏様に前に座ると、目の前の仏様もイライラされているように感じられます。前日妻とけんかをして腹を立てたままで仏様の前に座ると、目の前の仏様も怒っているように感じられます。逆にこれはめったにないことですが、声の調子も良く自分でも「今日は良いお経が読めたなあ」と思ったときには、目の前の仏様もニコニコ笑っているように感じられます。またこれはあまり大きな声では言えないのですが、前の夜に飲みすぎてしまい、二日酔いでどうしても朝のお勤めをするのがつらい時は、お線香を立てて手を合わせるだけで済ませるときもあります。飲みすぎと寝不足でヨロヨロしながらお線香を立てて、仏様の方を振り向くと、仏様がギロリと私を睨んでいます。恐ろしいような、悲しいような、情けないような顔で私を見つめています。「お前はそれでも本当に坊さんか?」と問いかけられているような気がします。同じ仏様のお顔ですが、自分のその時々の心と体の状態で、全く違うお顔に見えるときがあります。「そんなバカな」「それは気のせいだよ」と言われる方もおられるでしょうが、私には本当にそう見えます。同じ仏様ですが、全く違う雰囲気を感じることがあります。
 皆様方はどうですか。このような体験をされたことがある方もおられるのではないですか。ためしに今日起きられたらご自宅のお仏壇の前に座って仏様のお顔をまっすぐに見てください。仏様はどんなお顔をされていますか。もし怒っているようなイライラしているようなお顔をされていたら、今のご自分の心もそうではありませんか。もし仏様のお顔が、ニコニコと穏やかならば、今の自分の心もそうではないですか。
 「地獄も極楽も私たちの心の中にある」という言葉を聞いたことがあります。恐ろしい鬼のいる地獄や、優しい仏様のおられる極楽も、どこかほかの場所にあるのではなく、すべて私たちの心の中にあるという意味です。
 例えば、先日福岡で飲酒運転の車に追突された車が海に転落し、幼い子供三人が犠牲になるという本当に痛ましい事件がありました。飲酒運転をした挙句、子供三人の命を奪った22歳の犯人は、これだけ見ればとても愚かで到底許しがたい極悪人ですが、ある新聞には「近所の人達は、子供やお年寄りを大切にする真面目な青年と見ていた」とありました。どちらが本当の犯人の顔なのか。おそらくどちらもこの犯人の持つ素顔だと思います。
 この例えは極端かもしれませんが、しかし、私たちの中にもこのようないろいろな顔があり、その時々の心の状態やその場の雰囲気で、鬼のような顔が出るときもあれば、動物のような顔が出るときもあり、人間の顔が出るときもあれば、仏様のような顔が出るときもあります。これは人間であれば誰でもそうです。一年365日、ずっと鬼の顔でいる人もいなければ、ずっと仏様のような顔でいる人もいないと思います。その時々で我々の心の中はつねに移ろい変わり、怒り・嘆き・悲しみ・笑い・慈しみ・喜び・・・・といった感情が現れては消え、消えては現れます。それが我々人間です。そして、そんな我々人間を一番理解してくださり、見守ってくださるのが仏様であると私は思います。ですから、もしあなたが仏様のお顔を見て、それがニコニコと嬉しそうだったら「あなたが嬉しいと私も嬉しい」と仏様も一緒に喜んでいるんです。もし仏様がイライラと怒っているようなお顔なら「お前は今こんな顔をしているぞ」と注意してくださっているんです。もし仏様が悲しそうなお顔なら「私も一緒に悲しんであげよう」とそばに寄り添っておられるんです。
 仏様はいつでもどこでも私たちを見守り、そして、私たちの心の中を教えてくださっている。私はそう思います。皆様方もゆっくりと仏様のお顔を拝んでみてください。
 本日は倉敷市本町、本栄寺、安井智晃がお話させていただきました。