皆様、おはようございます。お元気でお目ざめのことと存じます。今朝は、岡山市建部町富沢・日蓮宗成就寺住職・広本栄史がお話しさせていただきます。
現代の世の中を一寸のぞいてみますと、悲しいことに「ありがとうございます」という感謝の心が足りないように思われます。その為、我が親に対し、我が夫や、妻に対し保険金目当てに殺害したり、我が子に対し虐待したり、畜生以下の心になっている人がチョコチョコおられます。これは我慢する心、思いやりの心が足りない為、恐ろしい行動になるのではないでしょうか。
忘恩の四邪魔という歌に、「借りた傘、雨があがれば邪魔になる」。買い物に出かける。沢山の荷物を持って帰る。途中、夕立にあう。傘を借りて帰る。夕立が止む。傘を畳む。しばらく歩いているうちに傘が邪魔になる。この傘、貸してくれなければよかったのにと。
「親兄弟世帯持てば、邪魔になる」男女を問わず、成人し、結婚する。両親兄弟にあんなにお世話になって結ばれたのに、日がたつにつれて両親兄弟が邪魔になってくる。
「受けた恩、成功すれば邪魔になる」就職するため、あの手この手とご縁を頼りに就職する。いつの間にか、自分だけの力を過信し、お世話になった先輩諸氏の恩をすっかり忘れてしまう。
「金持てば古びた女房邪魔になる。金持てば古びた亭主邪魔になる」給料も高くなる。若い美人とデートする。奥さんのほうでは、さんざん苦労させられたのだから、退職金が入ったら半分いただいて離婚させていただきます、と。人間が感謝の心を忘れると、このような心が起こってくる。人間の心は、慣れると恐ろしいものです。これは、みんなが、自分が、私が、という「我」の心を通す世の中になったからではないのでしょうか。
時々、2,3人のグループを組んでやってくる宗教団体の人たちがいます。先般、わたしに「あなたは幸せですか?」と言ってきました。
「はい、私は毎日み仏に守られて、生かされていますので、幸せいっぱいです」と答えました。今度は、私の方から「あなたはどこを通ってきましたか」と尋ねると、「下の仁王門を潜ってきました」と言うのです。お寺へ堂々と入ってきて宣伝するのには驚きました。「入信する人がいますか?」と尋ねると、「千人に一人くらいいます」という返事でした。その一人の入信を願って、毎日宣伝に歩いているそうです。そして、お話の中で驚いたことに、両親が亡くなっても、葬式も法要もしない、お墓もいらないということでした。人間は霊魂は滅するから、供養する必要がないというのです。「それではあなたは誰から生まれてきたのですか」と尋ねると、「両親からです」。「それでは両親が亡くなられたらどうしますか?」と、「はい、葬るだけです」。「それでは可哀相じゃありませんか」。「それで良いと教わっています」。「そんな親不孝は聞きたくありません」とお断りしても、時々やってまいります。
このような親不孝な教えに迷わされるのはどうしてでしょうか。それは心が次の三つのことに迷うからです。一つ目は、貪りの心。すなわち、あってもあっても欲しい心のことです。二つ目は、瞋りの心。腹をたてる心です。三つ目は、愚痴の心。それは取り返すことのできないことをいつまでも思いめぐらす心。そして、それを言い続けることです。昔の人は、そのことを「身の毒は、取り越し苦労と、過去の愚痴、誠つくして今日を楽しめ」と戒められています。この迷いの心を少なくして正しいものの見方ができるようにつとめてまいりましょう。
今日の社会は、衣、食、住ともに豊かな時代です。その為、人間がわがままになり、特に食べるものは、好き嫌いが多く、栄養のバランスを失っているように思われます。その結果、児童、生徒に成人病のような病気が増えているそうです。したがって、人間の身体がもろく、弱くなってきているように思われます。そして、心までが、もろく、弱くなり、正しい生活ができなくなっているように思われます。
私も我の強い、煩悩の垢にまみれた人間です。中年までは、お陰様で病気もせず、健康でお勤めをさせていただいておりました。時々、病人の見舞いに行き、入院したらゆっくり休めていいだろうなーと思ったりしたこともありました。その心に罰があたって、ある日突然喉が痛くなり、声が出なくなり、手術をいたしました。手術後一ヶ月間、絶対に声を出したらいけない、と言われました。その時、「もしこのまま声が出なくなったら、お経は読めない、お話も出来ない。そしたら、これから自分はどうして生きていけばよいのだろうか」と思った時、呆然として涙が止まりませんでした。わたしのおごりの心に罰が当たったのです。通院中、電車の中で挨拶される、が声が出せない。紙へ書きながらの会話。今までは、話ができ、声が出るのがあたりまえと思っていた自分、この時、あらためて身体の不自由なお方の気持ちがわかり、健康の有り難さをしみじみわからせていただきました。それからは、おごりたかぶりの心を捨てて、心あらたに、一心にみ仏に反省懺悔のお祈りを続けております。
私達の毎日の生活のいろいろな姿は、仏さまがいろいろな姿に身を変えてお導き下さっているのです。私達は普段、直接、人から親切にされたり、大事なことを教えてもらえば、「ああ有り難い」と感謝いたします。反対に、自分とかかわりのない人達については、無関心になりがちですし、自分にとって不都合な人は敬遠してしまうものです。しかしながら、直接的には関わりがなく、何気なく見過ごしていたり、あるいは反発を感じていた人達が、実は自分にとってかけがえのない人であったり、何か深いことを教えてくれていることがよくあります。
たとえば、お酒飲みの夫が、実は妻としての自分の思いやりのなさを教えてくれている姿であったり、毎晩カラオケにばかり出かける妻が、実は夫としての協力のなさを示している姿ではないでしょうか。
また会社の同僚が、いつも苦言ばかりを言うのも、実は深い愛情を示してくれている真の友ではないのでしょうか。非行に走った我が子が、実は身勝手な親の生き方を映し出しているのではないでしょうか。私の病気の話をいたしましたが、病むことによって、はじめて自分の健康の有難さを悟らせていただき、災害にあってはじめて天然の恵みに気づかされるのではないでしょうか。
日蓮聖人の御妙判「四条金吾殿御返事」に「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合わせて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ。これあに自受法楽にあらずや。いよいよ強盛の信力をいたし給へ」と、申されています。
つまり「苦をば苦とさとり」と申しますのは、今日まで知らず知らずの間に作った心の垢によって、押し寄せてきたのだ。「楽をば楽とひらき」とは、今日までの正しい行いですと。苦しみにつけ、喜びにつけ、毎日生かされていることに、「ありがとうございます」と、心から感謝のお祈りを続けていくと、満月のように心が晴れ晴れとして生きて行けますよ、とお導きでございます。
それでは皆様、元気でお過ごし下さい。今朝は、岡山市建部町富沢・日蓮宗成就寺住職・広本栄史が放送いたしました。