お早うございます。岡山市上中野にあります正福寺住職稲垣宗孝でございます。朝の一時をお借りしてお話をさせていただきます。
 私事ですが、今年65歳になりました。私の人生では、遠い昔のことになりましたが、中学生の時、学校に新聞社の論説委員の様な方が来られて、新聞報道について話を聞く機会がありました。その方は、開口一番『猫がネズミを捕ってもニュースにならないが、ネズミが猫を捕ればニュースになる』と言いました。日常で滅多にないこと、意外性のないこと以外はニュースの価値がないということでしょう。なるほどと思いました。
 今日でも、日常の平凡なことは報道の対象にはなりにくいのでしょうが、それにしても毎日、目にし耳にする事件が多すぎます。もっとも、事件の数は十年前と比較すれば、むしろ減少しているという方々もいますので、このような指摘を見ますと、多少安堵した気持ちにもなりますが、その分、テレビ等の報道メディアの増加もあるのでしょうか、減ったような実感はありません。何より、憂うべき事は、事件の質が年々凶悪化していることです。
 そのような中で、今年の2月14日に東京板橋区で踏み切りに飛び込み電車に引かれて自殺しょうとした女性を助けるために、自分が電車に引かれ殉職した、宮本邦彦警部のニュースを見ました。私は、一瞬身の引き締まる思いがするとともに、例えよぅのない熱い思いがこみ上げてきました。厳しいけれども限りなく美しい、仏・菩薩のような方だと感動しました。宮本さんは交番勤務の中で地域の人々に心から慕われていたそうです。
 宮本さんの死後、しばらくして産経新聞社『天国の宮本さんありがとうございました』で始まる一通の手紙が届いたそうです。手紙には、宮本さんへのあふれる感謝の気持ちがつづられていました。それは、現在窃盗罪で逮捕され板橋所に拘置中の男性からでした。彼は、以前にも警察のやっかいになんることがあり、刑務所を出たばかりの時、身よりのない人を受け入れる保護施設への道を、常盤台交番で宮本さんに尋ねたそうです。宮本さんは丁寧に道を教え、『自分を大切に、同じ過ちを繰り返すなよ』と言い、雨が降っていたので傘まで貸してくれたそうです。その後も交番を通るたびに『頑張っているか』と優しく声をかけてくれていたようです。残念にも、男性は再び犯罪者の身となりましたが、このことを悔い、宮本さんの殉職により、新たに強く厚生を誓ったそうです。産経新聞は宮本さんを紹介する特集のタイトルを『無私の心』としていました。私はこれほど要を得た、適切表題は無いと思いました。
 多くの人々は自分の利害得失を第一に考えて生きます。社会で許される範囲のものならばそれでよいのでしょうが、度が過ぎますと、仏教で言う煩悩、言い換えるならば、(我執・自分に執着する心、)我欲・(エゴ)になります。我見(自分だけを見る)も煩悩の一つです。自分の見方にこだわり続ける、自分中心の生き方なのでしょうが、『人に見られなければ、何をしても良いと思うのも我見です。路上へのたばこの投げ捨て。夜間に多い車からの空き缶の投げ捨て等は我見なのでしょう』
 よく共存、共栄等といわれますが、まずは、自我が先行するのが人間です。共存共栄はおろか、『無私の心』にはなれるものではありません。それだけに、宮本警部には深い尊敬の念を持ちますが、この『無私の心』を『自分を勘定に入れない』という言葉で表現している方があります。宮沢賢治です。
 賢治は明治29年に生まれ昭和8年に37歳の若さで没しましたが、近代を代表する童話作家であるとともに宗教家でもあると思います。盛岡農林高等学校、現在の岩手大学を卒業さらに研究生活を続けるながら冷害に苦しむ、東北地方の農業の改善指導に努力したようですが、なんと言っても彼の生き方を支えたのは、法華経信仰でした。文学的才能に秀でた賢治は多くの詩を書いていますが、その根底には法華経信仰が流れています。
 賢治の死後、トランクから発見された手帳の中に書かれていたといわれる詩が有名な雨にも負けずです。
 雨にも負けず   風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ   丈夫な体を持ち
欲はなく   決して慎らず
いつも静かに笑っている   1日玄米4合と
味噌とすこしの野菜を食べ   あらゆる事を
自分を勘定に入れず   よく見聞きし解り
 そして忘れず   野原の松の林の陰の
小さな茅葺きの小屋にいて   東に病気の子どもあれば
行って看病してやり   西に疲れた母あれば
行って稲の束を負い   南に死にそうな人あれば
行って怖がらなくてもいいといい 北にケンカや訴訟があれば
つまらないから止めろといい   ひでりの時は涙を流し
寒さの時はおろおろ歩き   みんなにでくの坊と呼ばれ
ほめられもせず   苦にもされず
そういう者に    私はなりたい
この詩を近代の法華経だと言った方がありましたが、言い得て妙だと思います。 
 人間の性は本来善なのか、悪なのか、昔から議論のある問題です。美しい行為や言葉に接しますと、善なのかなあと思いますし、忌まわしい事件の報道や利己主義一辺倒のような人をみますと、悪なのか、だからそれを規制するために法律や罰則があるんだ、とも考えます。
 仏教では、人間の中に、地獄、餓鬼、畜生、修羅の心を持つ者もあれば、菩薩や仏の心を持つ者もあると説れますので、決して一定して変わらないと言うものではありません。しかし、大切なことは、表面は何層もの煩悩に覆われ、地獄や修羅等の世界に住んでいるような者でも。その幾層にも重ねられた我執・我欲、我見の煩悩をはがしていくと、中には、宮本警部や宮沢賢治の様な『無私の心』『自分を勘定に入れない心』言い換えるならば仏性が存在していると説かれることです。
 人間は本来善であると考えるのが仏教の究極の立場です。善の生命である仏は私たちに姿を示し、教えを説くために人間釈尊として二千五百年程前に出現されました。日蓮上人は七百年程前に、時代は変わってもいろいろな方が人間の善なる姿を示されました。
 近代にも宮沢賢治に代表される聖人が出られました。宮本さんは平成の菩薩の一人でしょう。そして、社会の中にはまだまだ多くの善行の人々がおられるはずです。暗いニュースだけではなく、このような方々を一人でも多く世の中に紹介することが多くの人々に人間としての理想的生き方を示し、勇気をあたえることになると思います。
 ご静聴ありがとうございました。