今日は、仏教の心についてお話しします。
最近このような質問をよく聞きます。
「母とお寺へ墓参りに行きました。近くの誰も参っておられないような墓にお花を分けて供えて拝んで上げました。そしたら母が『そんな無縁の墓にいらんことをしたら、霊が取りついて来て祟られるから止めとき』と言われました。本当でしょうか」とか「仏壇に、他人の位牌など一緒に祀っては良くないから止めろ、と言われました。やっぱりそういうことをしたらいけないものでしょうか」と。
いつ誰がそんなことを言い出したのか分かりませんが、全く仏教本来の精神から逸脱した考え方です。これに類したようなことが、先生といわれるような人や、名のある人の話として伝えられると、何も知らない人は本当と信じてしまいます。たいていは口伝えで、元を探ってゆくと何の根拠も見当たらないのです。強いて言えば、誰かがただの思いつきや多分そうじゃないかなというくらいの憶測で言い出したのが、そのまま伝えられていってさも真実であるかのように信じられてきたのかも知れません。
インドで最初に仏教が起こった当時は、僧と俗の区別がはっきりしていました。僧はひたすら悟りを求めて修行に打ち込み、一切の俗事から離れて生活していました。それに対して、一般の信者は、生活力を持たない僧に食物や財物を供養することで、その功徳を自分にも受けようとしました。僧たちは俗世の人に教えを施し、俗世の人は僧に財物を施す。これを「法施」「財施」と言ったのです。
ところが「世間から隔離された世界で、ただ自分だけの悟りを求めていいのだろうか、もっと民衆の中に入って苦しみや悩みを分かち合い、人々の心を救うことに積極的に働きかけて行くべきではないか」
というような反省が、革新的な僧の人々の中から起こりました。すなわち自分だけのことより、より多くの人々の為に尽くすという働きです。これを菩薩行と言います。
本来お釈迦様が説かれた教えは、一切の衆生を差別なく、すべて救おうという思想が根底にあり、そこに従来の宗教との大きな違いがありました。たとえ罪を犯した者でも悔い改めれば必ず救われると言うのです。
ただ、だからといって幾ら悪いことをしてもいいということではありません。己の悪を心から悔い改めるということが前提になっています。したがって、縁のない者を受け入れてはいけない、などというのは、大乗仏教の精神に根本的に背いていると言わなければなりません。むしろ、そういうものを積極的に受け入れ、同化していくことこそが大事なのだと思います。
我々が読経の後で唱える回向の中に「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん」とあるのはその為です。
盆に行う施餓鬼も、自分たちの身内とは全く関係の無い未だ成仏していない無縁の霊に供養することで、その功徳を回して自分達の祖先に向けるという行事です。
戦後、何度か宗教ブームといわれる現象があり、いろいろな新宗教が生まれてきています。また「霊」を取り扱った色々な説が流布しています。それぞれの対象や、その方法は皆違っているのでしょうが、共通して言えることは、自分個人の不幸を取り除き、自分個人の幸福を追求するということではないでしょうか。しかし大乗の精神からいえば、自己のみの幸福を追求することは仏教的であるか、という問題になります。
衆生の為に尽くすということは、他から強制されたり、相手から求められてするのではなく、自分が心から自然にそうしたくなることです。それには、自分自身が変わらなければなりません。その根底にあるのは、慈悲の精神です。法華経の中に「慈を以て身を修め善く仏慧に入る」とあります。自分の利益になることを一切捨てて、ただ人々の為に尽くすというのは、菩薩の行為であって、我々凡人にはとても出来ることではないと、多くの人は思うでしょう。正直言って、恥ずかしいことですが、私にもまだ出来そうにありません。しかし、いきなり菩薩と同じ心境になれなくても、自分の出来ることの中から、少しずつでも始めていくことは可能だと思います。
自分の貪りの気持ちを抑えて人に譲ったり、人の過ちを許したり、喜びや楽しみを人々と分かちあったり、人に優しい慈しみの言葉をかけたりすることは、誰にでも、しようと思えばできることではないでしょうか。
ただその場合、相手の立場や気持ちを考えず、一方的に善意を押しつけたり、自己満足の為にするのでは何もなりません。ましてや、自分がしたことを人に誇ったり、報いを期待するのでは何の意味もありません。さりげなく、誰がしたかわからないようにするのが本当の善行であり、他人の喜びを自分の喜びにできたら、本物だと思います。