皆様、お早うございます。今朝もお元気でお目ざめのことと存じます。
今朝は、岡山市建部町富沢・日蓮宗成就寺住職・広本栄史がお話しさせていただきます。
毎日のニュースを聞いておりますと、恐ろしいことに、余りにも命を粗末にしすぎているように思われます。昨年のこと専門学校の十六歳の女子生徒が寝ていた父親を斧で切り殺した事件がありました。彼女は十六歳になったら力もつくから、それまで待っていたと供述している。十六年間父親は子供の成長を願って、毎日一生懸命働いていたでしょうに。理由はどうあれ、この家庭はどんな家庭だったのでしょうか。
去る三月二十三日の午前十一時頃、茨城県土浦市の駅構内で、通行人ら八人を次々と刃物で刺し、一人死亡、七人が負傷、うち二人が重体となった。逮捕された容疑者二十四歳の男子は「誰でもよかった。人を殺してみたかった」と供述しているそうです。どんな心の中かのぞいて見たい気がします。また、三月二十五日には大学進学を断たれた十八歳の少年が、岡山駅で県庁職員假谷国明さんをホームから突き落とし死亡させた。出棺前に、小学一年生の長女の手紙を、父親の要さんが読まれた。
「とうさんへ。いつもおしごとがんばってくれてありがとう。でも、じこにあって、つらいめにあったとおもうけど、みんなとうさんをしんぱいしていて、わたしは学校から、かえってきて、とうさんがしんだときいて、とてもかなしくなりました。でも、とうさんがいなくても学校がんばります」と。
読み終えた要さんは、「このけなげな言葉を犯人に聞かしてやりたい」と、声を震わせて訴えておられました。十八歳にもなったら、自分の心は自分でコントロールできる人間になってほしいものです。
ほとけさまの教えに、「たったひとつのとおといいのち。ほとけさまはいのちのあらわれ。草も木も、鳥も魚も、みんないのちをたいせつにしていきている。きびしい、しぜんのなかにいきぬくいのち。ちからづよいいのち。ふしぎないのち」このいのちのとおとさをほとけさまがおしえてくださる。いのちをたいせつにする人間となろう。
日蓮さまは「財あるも、財なきも、命と申す財にすぎ候。財は候はず」と申しておられます。たった一つしかない命、この命という財、みんな大切にして生きている。自分の命が大切なように人様の命も大切に守り合っていこうではありませんか。
日蓮宗では「立正安国・お題目結縁運動」を展開しております。スローガンが「命に合掌」です。岡山県では「家族で合掌」「明るい家庭づくり」をお願いしております。三月二十一日の朝日新聞の「信用、信頼」を中心に政治や社会の基本意識の調査によりますと、世の中の信用が揺らぐ中でも、家族をよりどころとする姿が浮き彫りになっています。家族は信用できる存在と、ほとんどの人がそう受け止めるなか、では、家族を結びつけているものは何か、という問いに、「精神的なもの」「血のつながり」「一緒に暮らすこと」「経済的なもの」「名字や戸籍」。女性は「精神的なもの」がやや高めなのに対し、男性は「血のつながり」が最も多く、次に「精神的なもの」だそうです。「精神的なもの」は二十代、三十代の若い世代では55%を占め、特に女性は63%と際だっている。これに対し「血のつながり」は、年代が上がると益々高いのが目をひいている。次に、普段の家庭生活にもう少しあったほうがよいと思うものは、最も多かったのは「おもいやり」。次いで「会話、くつろぎ、笑い、自由、しつけ、親の権威」だった。「おもいやり」は、高齢者ほど多くなる傾向があるといえそうです。誰しもが求めているのは、やはり「思いやりの心」です。
妙法蓮華経常不軽菩薩品第二十に、
「我れ深く汝等を敬ふ。敢て軽慢せず、所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、常に作仏することを得べし」と。私は、あなた達を深く敬っている。決してあなた達を軽んずる心はないぞ、と。それは、あなた達は皆仏に成る本性を持っているのだから、修行を重ねていけば仏さまの境界に到達できますよ、ということです。不軽菩薩の人を敬いしはいかなることぞ、教主釈尊の出世の本懐は人のふるまいにて候いけるぞ。私達の毎日の正しい行いによって、仏さまの境界に到達できますよ、ということです。
日蓮宗の信徒として、在家の誓いに、
「一家互いに相敬愛し、共に心を協せ、明るく楽しい家庭を築くよう心掛けます」
と、教えられています。家庭は私共の生活の大切な拠りどころであります。私共はこの家庭を安息所として終日の身心の疲れを休め、そして、明日への力の源泉を養います。明るく楽しい家庭でありましたならば、身も心もすこやかに自然に幸福な将来が開かれてまいりますが、それがもし、暗く、不愉快な家庭でありましたならば、ただそれが望めないばかりでなく、その為にさまざまな社会悪の温床にさえなります。犯罪の大部分は、こうした家庭を温床として発生するといっても言い過ぎではないでしょう。明るく楽しい家庭を築くということは、自分の為ばかりでなく、社会のためにも必要なことと言うべきです。
「互いに相敬愛し」とは、家庭が互いに他の人格や、立場や、気持ちを尊重し、且つそれに深い理解と同情を以ていつくしみ合うことです。人にはそれぞれ独自の、そして対等の人格があります。もちろん秩序の上からは「長幼序あり、夫婦別あり」の礼がもたれなければなりませんが、同時に独自の人格はどこまでも互いに尊重し合わねばなりません。夫だからといって妻を奴隷視したり、親だからと言って子供の人格を無視するようなことは、とうてい明るい家庭は築かれません。また、親には親、子には子、夫には夫、妻には妻の、それぞれの立場があり、立場によって本分があり、十人十色でそれぞれに異なった気持ちをもっております。それに対し、よく他の立場を理解して尊重し、よく他の気持ちになって考えることが大切で、自分の立場ばかり強調して他を無視したり、自分本位にばかり物を考えたのでは、到底うまくゆく筈がありません。こうして互いに敬愛し合ってこそ、明るく楽しい家庭が築かれるのですが、それには、その魂とも言うべき大切なことがあります。それは信仰です。私共は、せっかく良いことを考えても、じきに周囲の悪縁に引きずられて、退転し勝ちなものです。そういう時に引き戻してくれ、行く手を示してくれるのが信仰です。そればかりでなく、信仰の心はすべてに清らかさを与えてくれます。明るく楽しい家庭の建設は、信仰の力によって誤りなく進められ、そして清らかさを加えて一段と美しいものになるでしょう。
私はお寺で毎月第二土曜日の朝、少年少女浄心のつどいを修行しています。保育園から高校生までの方がお参りしています。今県外の大学四年になった男の子がいます。彼は、小、中学生の時、一生懸命お参りしていました。昨年末、大学の先生が、正月には何をするのと聞かれた彼は、一番にお寺へお参り、そしてご先祖のお墓へお参りします、と答え、その通り御宝前へお供えし、お祈りに来ました。信仰の心は、命を大切にし、親孝行の心が培われ、思いやりのある人になりました。わたしも本当に感動いたしました。皆様の御多幸をお祈りし、終わりといたします。
今朝は、岡山市建部町富沢成就寺住職・広本栄史が放送いたしました。