おはようございます。今日は日蓮宗・妙楽寺住職、北山孝治がお話をさせていただきます。
 4月の15日、日蓮宗のお坊さんになるための最初の修行であります「信行道場」が始まりました。道場は日蓮宗の総本山、山梨県の身延山にあります。35日間ですから、5月の19日まで修業は続きます。私の長男も今この道場に入っています。
 前日の夕方、門前町の宿屋さんに入りました。私もいっしょにまいりました。早速、予約してあった床屋さんで剃髪しました。青々とした坊主頭が長男の入行の実感と緊張を高めたようです。
 翌日八時、身延山の西谷にある信行道場に集合です。道々、真新しいねずみ色の衣と黄色い袈裟をかけたお坊さんの卵たちが歩いていました。みんなそれぞれに緊張の面持ちです。見送りのお師匠さんやお檀家さんたちで道場の前はいっぱいでした。長男も「いってきます」と短い言葉をのこし、決意と不安と緊張のおもむきで道場の門をくぐっていきました。
 私が信行道場に入ったのはもう30年の前のことです。前日の夕食のとき、息子に道場のことをいろいろ聞かれましたが、意外と忘れていることが多く自分でもびっくりしました。しかし、ほとんど何も変わっていないこの道場の前に立ったとき、なつかしさとともに30年前に記憶がよみがえってきました。不安と緊張、そうです、こんな気持ちで私もこの門を入っていったのでした。板張りの道場で入場の心構えを聞き、名札をもらったあと二階にある宿舎棟に荷物を運びあげた。取って返してお山での入場式に臨むために道場の前庭に班別にならんだ。団扇太鼓を叩きながら大きい声で「南無妙法蓮華経」と唱えながら西谷の急こう配の坂道をわけもわからず二列に並んでお山へ登っていった……。あのときの胸がしめつけられるような心持がまざまざと思い出されてきました。
 私の時の訓育主任の先生は山田是忠先生という方でした。もうお亡くなりになられましたけど、静岡弁丸出しで「お題目」のことを「おだぁもく」と発音されました。山田先生にご指導いただいたことは、私にとって終生の宝物となりました。お坊さんとな何なのか、お経を読むとはどういうことなのか、基本的なこと、それでいて根本的なことを毎日、やさしく丁寧にわかりやく教えてくださいました。お経を早く読んでいると「なんだかお経がおこられとるようだにゃー」と、ただお経を技術的に読むことを暗黙のうちに戒められました。一番印象に残っている言葉は「何を勧請し、何を祈り、何に回向し、どこに安心(あんじん)を求めるか。ちょっと考えてみてちょう。これ宿題」というものでした。いつも答えは言われませんでした。問いを発してくださるのです。いま振り返りますと、この宿題は一生の宿題だったんだと気づきます。
「初心忘るべからず」という諺があります。
 坊さんになる私の初心は、30年前の信行道場に入るために門をくぐった時の、あの不安と期待と緊張の心でした。35日間、山田先生に教えていただいた貴重なる時間でした。もちろん山田先生との出会い、戴いた言葉の数々は今でも憶えています。しかし、前日、息子に聞かれたときには入場初日の不安だった心、緊張した様子はほとんど覚えていませんでした。なつかしい信行道場の前に30年ぶりに立ったとき、やっと思い出しました。山田先生の言葉も憶えてはいますが、あの問いを今でも自分自身に発しているかと考えますと自信はもてません。
「何を勧請し、何を祈り、何に回向し、どこに安心を求めるか」 そう言われた時の山田先生のお姿や声色まで思い出しました。改めてこの言葉の意味を考え直す機会をあたえられたように感じました。
 勧請とは、お経を読む前に多くの仏さまや菩薩さまがたの名前をお呼びし、祈りを捧げているこの場所に仏さまや菩薩さまがたに来ていただくことです。ですから「何を勧請するか」ということは、自分の信仰の対象、ご本尊をはっきりとさせるということになります。また、その仏さまたちが実際にこの場所に来てくださっているということを実感できるかどうか、仏さまや菩薩さまの実在を心から信じることができるかどうか、ということも問われることになるのです。「ただただ形式的に仏さまや菩薩さまの名前を読み上げても、それで勧請という儀式が済んだということにはならないんだよ、勧請するということはあなたの信仰の根本的な問題なんだよ。よーく考えなさい」という山田先生の問いかけだったのだろうと思います。
 私は、この問いかけに真剣に向き合ってきたのだろうか、と反省しきりです。あれから30年もたっているのに確たる答えがあるわけでもありません。いまだに、ただただ仏さまがたの名前を形式的にお呼びしているだけのような気がします。
「何を祈るか」もまた大切な問題です。私たちは弱い存在ですから、自分の健康や合格祈願といった、いわゆる現世利益を祈ることはしかたのないことです。しかし、自分のことを離れたもっと大きな祈りについても考えなくてはならないのでしょう。
「世界が全体幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」。この言葉は、法華経の教えを熱烈に信仰した宮沢賢治の言葉です。仏教が求める祈りとは、実はこうしたより大きい祈りのはずです。できるだけ自分自身の欲望から離れることが仏教の目的なのですから、共に生きている他の人々へどれだけやさしさの眼差しを向けることができるかが問われるのです。
 もちろん、このような大きな祈りを持つことはなかなか大変なことです。仏さまの実在を心から信じることも容易なことではありません。大きな祈りを持つことも、仏さまの実在を心から信じることも、口で言うほど言葉で書くほど簡単なことではありません。だからこそ、「そのことを考え続けていかないとねえ」と山田先生は坊さんになろうとする私たちにこの言葉を投げかけてくださったのだろうと、今になって思うのです。考えれば考えるほど「何を勧請し、何を祈り、何に回向し、どこに安心を求めるか、ちょっと考えてみてちょう。これ宿題」という言葉は重くて、基本的で、根本的な問いかけの言葉でした。
「発菩提心」という言葉があります。菩提の心を起こす、という意味です。菩提とは悟りのことですから、悟りの心を起こす、ということです。仏さまみたいな人になりたいという気持ちを持つことが仏道修行の始まりです。略して「発心」ともいいます。心を起こす、そしてその心を持ち続けること、これが仏道修行では何よりも大切なことなのです。まさに「初心忘るべからず」なのですが、言うは易く行うは難たしで、「初心」を持ち続けることはなかなか大変なことです。この30年間、それなりに頑張ってきたという気もしますが、なんとなく流されてきたようにも感じています。改めて、お坊さんになる修行を始めたあのときの心にかえり、山田先生の言葉を思い返してみようと考えています。
 新しい学校が始まって、また新しく就職して一か月ほどの今頃は「五月病」といわれる少し気が抜けてくる時期でもあります。希望に燃えていた心がなんとなくしぼんでくるのかもしれませんね。どうか「初心忘るべからず」「初心にかえって」がんばってください。
 本日は妙楽寺住職・北山孝治がお話しさせていただきました。