皆さま、おはようございます。今朝は、倉敷市片島にあります日蓮宗妙任寺修徒の茂出木裕介がお話させていただきます。
先月、有名人が描いた絵をオークションし、その資金を元にカンボジアに学校を建設するという某番組を見ました。私は、これでカンボジアにも強い日差し、また雨を凌げる屋根のある学校が数多く建設されることを嬉しく思いつつ、大学生のころ日蓮宗の事業としてラオスに小学校を建設する目的で訪れたことを思い出しました。
ラオスという国は、中国、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマーに隣接しており、国の面積は日本の本州くらいの大きさであります。人口は約六百万人で国民のほとんどが熱心な仏教徒で仏教国であります。ラオスに行く当初は、東南アジアと聞いてもラオスという国がどこにあるのかも分からず、ただ海外に行ってみたい、レンガ積みがしてみたいと軽い気持ちで参加しておりました。
皆さまは、東南アジアと聞いてどんな印象をうけますでしょうか?
ニュースや新聞などで痩せ細った姿を見て日本とは違い衣食住が満足のいかない貧しい国だと感じるのではないでしょうか?
確かに、ラオスという国は物質的に貧しくNGOや宗教団体から援助を受けています。唯一の義務教育である小学校は八千六百校ほどありますが、約半数が教室不足のため低学年クラスの不完全学校で就学率も約七十六%程度であります。かなり低いと思われる方もいらっしゃると思いますがこの就学率は必ずしも実情を伝えていないのです。と言いますのも、国勢調査を実施しているわけでもなく、最貧国になりたくないという意識が働いての国の自己申告されたデータが多いからであります。
また、ほとんどの校舎が竹、椰子で葺かれた建物で大雨、強風のため校舎が壊れて授業を受けられなかったり、子どもたちがそのせいで、怪我をすることもあります。小学校一つとってみても日本とラオスの貧富の差は歴然でありましょう。
しかし、仏さまの説かれた教えの中に「我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」とあります。私たちの住む世界は、安らぎで包まれ、天人が常に満ち溢れていると言われるのです。ラオスのように食べる物もわずかで、物質的には満足のいかない生活を送る人々と明日は何をしようかと少なくとも食に関して心配のない私たちのどちら共に仏さまの大慈悲はそそがれ安穏であると説かれているのです。
これはどういうことなのでしょうか?貧富の差というのは、私たち凡夫の偏見的なものの捉え方であるのです。言い換えてみれば自分たちの狭い世界でしかものを見ていないということなのです。私もその一人でありました。仏さまは外見的な裕福さではなく、人間の内に秘める心の安穏を説かれたのであります。
私が実際に体験したことですが、ラオスの人々は貧しさの中にも笑顔が溢れていました。それは、誰もが貧しく、みんなが同じ生活をして助け合わなければ生きていけないことを知り、同時に周りの人に支えられていると自覚しているからなのです。それに比べ、私たちは欲しいものならすぐに手に入るという便利で快適な生活を送り、あたかも自分一人で生きているように錯覚してしまっているのです。そのような、いかに自分が微温湯にどっぷり浸かるとも知らずに偏見的にものを捉え、それがすべて正しいと認識してしまっているのです。
これは、あるお上人から聞いた内戦の続いたカンボジアでの話です。小さな一つの机を五人もの子どもたちが窮屈そうに使い、授業に必要なものもまま成らない教育の場を目の当たりにしたならば私たちが協力、また援助できることは何があるでしょうか?
私もそうでしたが、教科書、ノート、鉛筆、もしくは衣服、履物等生活用品を思い浮かべるのではないでしょうか?
しかし、現地の校長先生が言うことには、今一番必要なのは「花の種」だと言うのです。それは、内戦で両親、兄弟、友人を亡くし、子どもたちの心から明るさがなくなってきています。日本には、たくさんの美しい花が咲いていると聞いていますので、どうか花の種を送ってください。せめて、子どもたちの心だけでも癒してあげたいのです。と付け加えて言うのです。ここで、言えることは、本当に求めているのは、心の安らぎであったのです。
このように、世界でも貧しい国と位置付けられているラオス・カンボジアと私たちの住む日本とどちらが人間の内に秘める仏さまのみ心、他を大切にする心に近づけているでしょうか。言うまでもないと思います。広大な大地、自然との共存という環境が人を優しくしているのかもしれませんが、決してそれだけではないのです。それは、その国に仏さまの教えが生活に根付いているから、仏さまを主体と考えるから生じてくるのでありましょう。
日蓮大聖人は、『立正安国論』という書物の中で「國は法に依て昌へ、法は人に因て貴し」と説かれております。国というのは、経済の発展で栄えているとは言わないのです。目先の利潤を求め、競争、発展していく中で、精神に知らず知らずに影響を与え、自分さえ良ければそれで良いというような気持ちを生じさせていることとも事実でありましょう。
文明とは便利なことではありません。高いビルを建設することでもありません。文明とは、人の生き様によって法を立てることなのです。仏さまの教えを第一と考え、他者の置かれている立場を自分の身になって真剣に考える、そして、全体があってその中で私たちは生かせて頂いていることに気付けば自然と思いやりの気持ちが湧き出てくるのです。
また、日蓮大聖人が私たちに遺された南無妙法蓮華経のお題目とは、知らず知らずのうちに身に染み付いている偏見的なものの考え方を逸脱させ、仏さまのみ心をもって、他者、あるいは生きとし生けるもの全てに接して行くようお誓いするものであります。
まずは、相手も自分をも気持ちよくさせる「おはようございます」の挨拶から一日を始めていきたいものです。
今朝は、皆さまの貴重なお時間を賜り、また、最後までご清聴いただきましてありがとうございました。
倉敷市妙任寺修徒・茂出木裕介がお話しさせて頂きました。