おはようございます。今朝は、備前市の日蓮宗妙圀寺住職平野光照がお話させていただきます。
皆さん、今朝も元気にお目覚めですか? 早お仕事に行かれる車の中で聞いていただいてる方もおられることでしょう。私は今聞いていただいてあなたの顔を見ることはできません。もちろんあなたも私の顔はご存知ないと思います。顔も名前も知らない者どうしが、今この番組をとうしてご縁をいただくことができました。なにか不思議を感じてしまいます。今朝お寝坊されていたらこのご縁はありませんよね。人生八十年と言われても、どれだけの人にめぐりあい、どれだけの方と心を通わせることができるでしょうか。
そんな中で先日、不思議なご縁から実現したコンサートを見せてもらう機会がありました。日蓮宗の総本山である身延山に百三十三年ぶりに五重塔が復元完成して、先月落成式典が五日間にわたって行なわれましたが、そのお祝いのイベントの一つに米良美一さんのコンサートがありました。宮崎駿監督の『もののけ姫』を歌ったあの米良さんです。
このコンサートが開催されるまでには悲しい話と不思議なご縁がありました。
身延山の門前町で数珠屋を営んでいるAさん、十一年前、大学に入ったばかりの息子さんを交通事故で亡くされました。悲しみに沈んで何も手につかない日々が続きました。もう私も一緒にそちらに連れていって欲しいとまで思ってしまったそうです。でもある朝、お燈ししたお香のいい香りとともに息子さんからのメッセージが聞こえたように思ったのです。「僕は見ているよ。僕はあなたとその町が活気にあふれ喜びで満たされていることが大好きなんです。」と。ハッとわれに帰ったAさん、その日からは、私が悲しんでいたら息子も悲しむ、自分が元気でいれば息子も喜んでくれるだろう…と思えるようになったのです。「私には自分の魂がどうなっているかわからないけれど、あなたには母がどうしたらいいかわかるのでしょ。どう生きていったらいいかをそちらから教えて。」と位牌に向かって話しかける日々が続きました。
そんな不思議な思いがあってから数年後、息子さんが亡くなる前に、『もののけ姫』の歌を歌っていたということを知ったのです。その歌に何かメッセージが込められているのだろうか?そんな事を思いながら、たまたま話したお客さんが後日なんと米良さんを連れてきてくれたのです。Aさんはもうびっくりしてしまいましたが、我が子が最後に歌った歌を米良さん本人に歌ってもらいたい…とお願いしました。「あなたの歌声を共に生きて入る人々に、そして又、亡くなった人々にも有難うの心を込めて届けたい」と頼んだのです。米良さんの快諾をいただき、最初は小さな会館でもとの思いが、身延門前町の皆さんからの協賛力添えをいただいたり、宗門からの後援をいただいたりで、五重塔落慶式典でのコンサートという大きな舞台で実現したのです。
不思議なご縁で実現した米良美一さんのコンサートの当日、身延門前町の皆さんと共にあわただしく接待におわれているAさんの姿がありました。特設の会場は満席、米良さんの澄んだ歌声が身延の山にも響きました。もちろん『もののけ姫』も歌ってくれました。コンサート最後に米良さんへの花束贈呈はAさんでした。どんな感謝の気持ちをその花束にこめたのかとおもわず涙が出そうになりました。アンコールの手拍子が鳴り止まず、二曲歌ってくれましたが、その一つに『ヨイトマケの歌』がありました。涙を流しての米良さんの熱唱が、何かAさんの息子さんからの応援歌の様にも聞こえました。多くの方が涙を流し、コンサートが終了してもしばらくは退場できない思いでした。
Aさん一人の力でこんなことが出来たのでは決してありません。でも、Aさんの思いから不思議なご縁をいただき、その思いに多くの方が協賛されたことで思いもしなかったことが実現したのです。きっと、空の上で息子さんも一緒に聴いてくれていたことでしょうね。そのAさん、二年前から毎日早朝に行なわれる本山の勤行に参拝されています。ある夢をみて、お経は自分であげないといけないと思い、本山の多くのお上人と一緒に読経されています。米良さんコンサートの翌日も本山の早朝勤行には、いつものように参拝されているAさんの姿がありました。きっとお礼の報告をされていたのでしょうが、大勢のお参りの方の隅で正座してお経本持参で一緒に読経されていました。
米良さんとAさんのご縁、人と人、めぐり逢う不思議を思います。そのめぐり逢いから人生が変わることさえあります。
七百年の昔、日蓮聖人は理不尽な迫害に何度も会われますが、その中で多くの不思議なご縁が生まれ多くの信者さんができています。伊豆に流された時も、船守というご夫妻に助けていただき、食べ物までそっと運んでもらっています。「日蓮が父母の伊豆の伊東に、生まれかわり給うか」とおっしゃる如く、不思議な出会いでした。船守ご夫妻は命の恩人でした。
日蓮聖人にとって最大の迫害だったのは佐渡への流罪でしょう。当時、佐渡に流されて生きて帰った人はいなかったのです。聖人も覚悟されていました。形見と思い残された書簡がたくさんあります。でも、日蓮聖人は不思議な出会いがあり、その方のお蔭で生き延び無事帰っておられます。
阿仏房・千日尼ご夫妻もその一人です。阿仏房という方は、日蓮聖人の配所の見張り役のような方でした。ですから、最初は罪人扱いでみていました。近くの僧や民衆が集まって日蓮聖人に罵声を浴びせたり、亡き者にしようと近づいたりしても、最初は当然だと見ており、自らも手を貸そうとしていたようです。ところが、その阿仏房さんの奥さん千日尼は日蓮聖人の堂々たる態度、怖れぬ姿に、ただの罪人ではないとの思いをもたれたようです。やがて、公的な法論の場がもたれ論争が行なわれましたが、経典を引いて理路整然とお釈迦さまの教えを説かれる日蓮聖人に心動かされます。阿仏房さんもやがて教えの話を聞きに行くようになり、食べ物や着るものなどを運ばれるようになりました。阿仏房・千日尼ご夫妻だけでなく、後に信者さんになられた方も多くおられます。日蓮聖人は不思議な出会い、ご縁をいただき、お蔭で無事に佐渡での二年半の生活を送られました。熱心な信仰をされるようになった阿仏房・千日尼ご夫妻などの信者さんとのご縁はここで終わるわけはありません。
日蓮聖人は佐渡から鎌倉に帰り、やがて身延山に入られますが、阿仏房さんは、身延山までも訪ねて行かれています。それも八十歳を超えたお歳で。どうしても日蓮聖人にお目にかかりたい、その一心で佐渡から身延まで大変な道のりを二十日ほどもかけて歩いて行かれました。日蓮聖人との再会をよろこばれ、奥様の千日尼からのお供えものをご宝前に供え、一緒にお経をお唱えされた阿仏房さん、涙を流して感激されたことでしょう。
阿仏房さんの身延山参拝はこの一回ではありません。翌年、さらに三年後にも なんと九十歳の体をおして日蓮聖人に会いに行かれています。法門のことなどいっぱい話をされ、心やすらいで佐渡に帰っていかれます。その翌年の春、九十一歳で阿仏房さんはお亡くなりになりました。その遺志は息子さんに受け継がれ、その年の夏、ご遺骨をだいて六十五歳になっていた息子さんが身延山に参られています。阿仏房さんのご遺骨は身延の日蓮聖人のもとに埋葬されました。
佐渡での不思議なご縁から深い信仰の結びつきを持たれた阿仏房さん夫妻は、それ以来、生き方まで変えてしまわれました。阿仏房さんが亡くなられるまで三回も佐渡から身延山を訪ねられた、それをつき動かせたものは、強い信仰のご縁です。
日蓮聖人は「一時の世事を止て、永劫の善苗を種えよ」とおっしゃっています。善苗とは善い苗という字を使われています。一時の雑事などをおいて、まず心の種まきにいそしみ、ご縁をいただいた仏になる善い苗、法華経をしっかり受けたもって欲しいとおっしゃいます。私たちも不思議なご縁で今を生きていますが、しっかりと善い苗を心にうえなければいけません。
最後に、テレビドラマで歌われていた「いのちの歌」という歌を紹介します。めぐりあいの不思議、命の不思議を歌っており、心にしみました。
いのちの歌
生きてゆくことの意味 問いかけるそのたびに
胸をよぎる 愛しい 人々のあたたかさ
この星の片隅で めぐり会えた奇跡は
どんな宝石よりも たいせつな宝物
いつかは誰でも この星にさよならを
する時が来るけれど 命は継がれていく
生まれてきたこと 育ててもらえたこと
出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう
この命にありがとう (NHK『だんだん』挿入歌)
あなたとめぐり会えたことは、もう奇跡です。本当にたいせつなたいせつな宝物です。そのご縁を大切にしなければなりません。
いつか私たちは最後の日を迎えるけれど、この命は受け継がれて生きます。
生まれてきたこと 育ててもらえたこと 出会ったこと 笑ったこと
そのすべてにありがとう この命にありがとう と感謝、合掌したいですね。
今朝は、備前市妙圀寺住職 平野光照がお話させていただきました。