皆様、おはようございます。今朝も元気にお目覚めのことと存じます。本日は赤磐市周匝、日蓮宗蓮現寺住職 堀江宏文がお話を担当させていただきます。
最近のテレビ番組のひとつに、かつての日本人の生き方や心構えを、改めて学び直そう、といった内容の番組がありました。思い起こせば「品格」という言葉が流行語になった06年。「国家の品格」「日本人の品格」「親の品格」「女性の品格」など、品格と銘打った書籍などが相次ぎ、ドラマ「ハケンの品格」などは大きな話題を呼びました。しかし多くの人がそれに飛びついてしまうということは、今の日本人に品格が欠如していることの現れであり、実はとても悲しい実態ではないでしょうか。
かつて日本を訪れた外国の人々は、日本人の節度と慎ましさに驚きと敬いの気持ちで賞賛したそうです。恥を不名誉とする日本人の美徳を日本研究のテーマにした外国人の研究者もいたほどです。そんな日本人の価値観を最初に文字に著し、この社会の決まり事にしたのが、聖徳太子の書いた十七条の憲法です。皆様ご存知の通り、そこには「和を以って貴しと為す」という第一条があります。和の精神を大切にし、争いごとを好まず、上下の隔てのない人間的な優しさに満ちあふれた社会がそこにはあったはずです。そして人々のまなざしは自然にもモノにも穏やかに優しく注がれていたはずです。
日本はいま、平和であっても平穏ではありません。戦争はありませんが、子殺し、虐待、親殺し、兄弟殺しなど、かつては殆どあり得なかった残虐な事件が頻繁に起こり、心から安心して穏やかに暮らすことができません。物があふれ、誰もが適度にお金を持っている現代。以前はお金や物は、人の心を豊かにする手段でした。しかしいつしかお金や物をたっぷりと持つことが、多くの人の目的になってしまったように思われます。
お釈迦さまは「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望が満たされることはない。快楽の味は短くて苦痛であると知るのが賢者である」と、お諭しになっています。自分の心に静かに耳を傾けてみますと、自分の人生をどこまでも満足させたい、満たしたいという欲望や願望が渦を巻いてはいないでしょうか。生きるために必要な生活物資が整っているにも関わらず、もっと豊かに、もっと楽しいことはないかと、心の外や物にばかりに飽くことなく求めています。そんな価値観に染まり、心を置き忘れてしまった現代。個人の幸せばかりを求め、他の人、他の物への思いやり、労わりの心が欠けているような振る舞い。他者への感謝、年配者への尊敬を忘れてしまっているのです。人間は忘れる動物であり、過ぎたことは早く忘れて、次に向かって進むのが良いとされる風潮もあります。しかし仏教では、世の中には忘れるべき事と忘れてはならない事の二つがあると教えます。
ひとりの老婆がお釈迦さまに次のような悩みを打ち明けます。「私は物忘れがひどくなって、何でも忘れて困ります。どうしたら物忘れをしないようになりますでしょうか?」仏さまは「それはお困りでしょう。しかし、今覚えていることもあるでしょう。それを話して下さい。」すると老婆は、目を輝かせて云いました。「ええ、ええ、嫁が毎日私にする仕打ちは、嫁が来たときから一つ残らず覚えておりますよ。朝起きてから夜寝るまで、何と気に入らぬことをする嫁だ、と」
お釈迦さまは微笑んでお諭しになります。「世の中には、覚えておかねばならない事、忘れた方がよい事、両方がある。忘れねばならないことを覚えすぎると覚えねばならないことが覚えらえない。あなたには今、忘れる修行が必要です。お嫁さんの仕打ちを忘れる修行をすることによって、あなたは物忘れがなくなることでしょう」とお教えになりました。他者への仕打ちなどは直ぐに忘れるべきこと。しかし受けたご恩は決して忘れてはならないのです。
「かけた情けは水に流し、受けたご恩は石に刻め」という言葉があります。ところが、私たちは相手にしてもらったことはその場ですぐに忘れ、受けたご恩を水に流してしまってはいないでしょうか。また反対に「してあげた」、「してやった」と思うことは、石に刻んでいつもまでも根に持ち自慢したい、認めてほしいと思ってはいないでしょうか。
かつての日本人が兼ね備えていた、優しさと節度と礼儀正しさなどは、決して忘れてはならないこと、忘れるにはあまりにももったいないことです。以前までは、各々の世代でつむいではそれを次の世代にバトンタッチしていたはずです。しかし世代間をつなぐその軸がいま、失われているのです。本来ならば、大人たちがその失われた分を埋め合わせ、子どもたちの世代に伝えていく努力をしなければならないのですが、その努力も不足しているのです。どんな人にも社会にも失敗はつきものです。だからこそ、失敗したときには立ち直ることが大切です。「そのうちに・・・」、「またあとで・・・」では、間に合わないところまで来ているのではないでしょうか。
皆様は、南米に伝わるハチドリの物語をご存知でしょうか。
ある時、アフリカで森林火災が起こり、多くの動物達は森を捨て、逃げました。しかし、一匹の「ハチドリ」だけが森の近くの湖から口ばしに1滴ずつ水を含んでは、飛んで行って燃えている森の上に落とします。また戻ってきては、水滴を運んでゆく。何度も何度も燃え盛る炎に水をかけました。それを見て逃げる動物たちは「そんなことをしていったい何になるんだ」といって馬鹿にしましたが、そのハチドリは動物たちにこう答えました。
「わたしは わたしができることをしているの」と。
「今やらねば、いつできる、私がやらねば、誰がやる」の心こそが大切なのです。私たちは大いなるものに生かされていることを謙虚に受けとめ、慈悲の心で生きることが、人としての本来の振る舞いなのです。今こそ真(まこと)真(まこと)の報恩に生きる時なのです。法華経には「お釈迦さまは永遠の昔から、慈愛をもってひたすら救いの手を差しのべ、私たちを導いて下さっている」ことを教え示しています。ところが、私たちはこのお釈迦さまの永遠の救いを認識せず、目の前の快楽におぼれ、この世にあって苦しみ悩みを繰り返しています。私たちは永遠で広大なお釈迦さまの救いに生かされていることに感謝し、いのちは万人のものであり、法華経こそが万人のいのちの教えであることを忘れてはなりません。
ことに法華経の文字は私たちが日頃、こころえなければならない大切な教えが説かれています。法華経の一文字一文字には真実の仏、久遠のお釈迦さまのみ心が具わっていますので、私たちに真(まこと)真(まこと)の救いと安らぎとを与えて下さいます。法華経の教えのままに生きることが、他者への気遣い、思いやり、両親や年配者への尊敬の念、そして生きとし生ける全てのものへの感謝・報恩の念を取り戻す心となるのです。法華経の教えに心した生活を、ともに歩み深めてまいりたいと願うものです。
今朝は、赤磐市周匝 日蓮宗蓮現寺住職、堀江宏文がお話いたしました。