ラジオをお聞きのみなさま、おはようございます。今朝は、日蓮宗・報恩結社・教導・宮本師pがお話しさせていただきます。お寺の朝は、皆様がご承知のように、朝のお勤めのお経で始まります。私のお寺では、毎朝のお勤めには法華経一部経を一巻ずつ読み、お題目を唱えています。法華経は全部で八巻ありますから、一日一巻ずつ読んで八日で一回りして法華経全部を読み上げます。法華経はお釈迦様が説かれた唯一真実の教えといわれています。
この法華経を毎日少しずつ読むことによって、お釈迦様が説かれた教え、またその心に近づきたいと思っているのです。
この法華経の第二巻の信解品第四というところには、長者窮子のたとえというのがあります。長者とは言うまでもなく裕福なお金持ちで、窮子とは貧しい人という意味です。もともとは長者の子として裕福な身であったのですが、家出し、長い間放浪してその自覚が無くなり、自分は貧乏だと思っている息子がいます。そして、放浪の果てにみすぼらしい身なりで、知らずに父親の家の前にやってきました。長者の父は我が子を家の中に入れようとしますが、子は父親の長者を警戒して、家に入ろうとしませんでした。そこで、長者の屋敷で掃除の仕事をさせることから始めたのです。長者も同じようにみすぼらしい身なりをして息子と一緒に仕事をして、長い年月がたちました。そして、いよいよ長者である父親は、死のうとする間際にその子に長者の息子であるという本当の事を伝えたのです。そしてその子は、放浪を続けていて貧しいとばかり思っていた自分が、実は裕福な身である事を悟ったのです。
この場合、長者は仏であり、貧しく、放浪している子は、わたしたち衆生のことを指します。長者窮子の教えの意味するところは、人間は本当は悟りという宝物を持っているにもかかわらずその自覚が無いために、放浪という迷いの世界にあります。しかし仏である父を持つ子でありやがては自分がもともと持っている宝物つまり悟りに気がつくという事を示しているのです。
ところで、近年、社会環境の悪化、また犯罪者の低年齢化の傾向を反映して、青少年に関わるニュースには重苦しい気持ちにさせられるものが少なくありません。今の日本、社会、世の中を背負っていくのは、子どもたちや青少年です。青少年教育の大切なことは常日頃から言われていることです。それにもかかわらず、母親、父親、また子どもをめぐる悲しい事件、暗いニュースが流れて来ます。そうした中で、最近、わたしたちの気持ちに安堵を与え、明るくさせてくれるようなニュースがありました。
今年の6月4日、高校生・二人が示してくれた勇気ある行動です。すでにご存じの方もおられると思います。帰宅途中の関西高校1年の宝来君、3年の伊井君が、「どろぼう〜」と言う72歳の老婦人の声を背後に聞いて、走り去るひったくり犯人を自転車で追いかけたのです。足の早い犯人を一端は見失ったものの、疲れて路地に隠れているところを宝来君が取り押さえ、そこに伊井君も追いついて、警察官に引き渡しました。ひったくりをした犯人は、なんと愛媛県警の29歳の警察官だったのです。それを15歳と17歳の高校生が捕らえたというので、新聞やテレビで大きく取り上げられ、話題になりました。
とっさの事とは言え、即座に犯人を追跡し最初に取り押さえた宝来君は、一見すると温和しい、どこにでもいるようなありふれた高校生です。しかし、実は少林寺拳法の2段でした。市内・湊にある岡山東道院に何年も前から通い、厳しい稽古を重ねてきた経歴の持ち主です。明るく、楽しい雰囲気の中で、長年厳しい指導を受けてきた彼には、正義感と勇気ある行動を支える自信が、厳しい稽古の中で育まれてきたのだと思います。
第一に彼の勇気ある行動はもちろんのことですが、さらに長年にわたって根気よく稽古を持続させてきた粘り強さがこの度の快挙につながったと言えそうです。
無関心、無気力、無責任などという言葉で表現されがちなのが昨今の若者の姿ですが、これはそのような若者像を、見事にくつがえしてくれた事例と言えます。若者には本来、純粋無垢な志がそなわっていると思います。その志をどのようにして正しい方向に延ばして言ってあげたらいいのかをこの事例は示しているのではないでしょうか。
考えてみれば、ひったくりをして捕まった29歳の警察官も、窃盗の容疑者を2度にわたって逮捕し、本部長表彰を2回も受けていたのです。老婦人からひったくりをした犯人の側にも、警察官を志し、窃盗事件を防止するという正義感がそなわっていたのでしょう。長者窮子の比喩で言えば、もともとは窃盗防止という「正義の宝物」を持っていながら、自分の迷いから放浪にでかけて貧しい心になってしまったと言えるでしょう。
私たちは、愚かな凡夫であるがゆえに、日々の生活の中で、怒ったり、愚痴をこぼしたり、あれが欲しいこれが欲しいとむさぼりの心を起こしがちです。この怒り、愚痴、貪りを三毒と言います。この毒気のために、私たちはついつい迷いの世界を放浪してしまいますが、もともとはそうした迷いから離れたすがすがしい心の世界があるはずです。捕らえた側の高校生にも、捕らえられたひったくり犯の側にも純粋な正義感があったのです。
私は、こうしたニュースに接して自身が大好きな詩を思い浮かべました。魂の詩人と言われた竹内てるよさんの「頬」という詩です。短い詩なので読んでみたいと思います。
頬
生まれて何も知らぬ 吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな
その頬は 赤く小さく
今はただ一つのはたんきょうにすぎなくとも
いつ人類のための戦いに燃えないということがあろう
生まれて何もしらぬ 吾子の頬に
母よ 悲しみの涙をおとすな
ねむりの中に静かなる
まつげのかげをおとして
今はただ白絹のようにやわらかくとも
いつ正義に決然とゆがまないということがあろう
ただ自らのよわさといくじなさのために
生まれて何もしらぬ吾子の頬に
母よ 絶望の涙をおとすな
(竹内 てるよ)
竹内てるよさんは、8年前に亡くなられましたが、今から30年ほど前、私が偶然に出会った竹内さんから頂いた小さな詩集のなかにこの詩はありました。自ら決して幸せとは言えない結婚生活を送り、我が子とも生き別れになるという辛い人生のなかから生まれた詩です。自らの人生の行く先に希望をまったく見いだせない中にあっても、なお我が子の将来に希望の灯火があることを強く訴えているのがこの詩です。
今朝もまた朝のお勤めで法華経を読み、お題目を唱えます。そして、私は窮子のような放浪によって自らを失わないように、また若者たちの将来に対して希望を持ち続けていきたいと思います。
今朝は、日蓮宗・報恩結社・教導、宮本師pがお話しいたしました。