皆様おはようございます。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘がお話いたします。
 早いもので4月の新年度からもうひと月あまりたちました。入学や進級、あるいは就職や転職で新しい生活がはじまった方々も、次第にその学校や職場に慣れてくるころでしょう。
 この季節になると私は「初心忘るべからず」ということばを思い出します。この「初心忘るべからず」という有名なことばは、室町時代に能を大成した世阿弥の『花鏡』という書物にでてくる名言です。調べてみるとこれは実に深い意味を秘めた教えなのです。けさはこのことについて少しお話してみたいと思います。
いま日常生活の中で、「初心忘るべからず」というと、なにかを習いはじめたり、あるいは新しいことをはじめたその時の、謙虚で純粋な気持ちを失わないようにしなさい、という意味で使われています。このようなことから、入学式や入社式では、校長先生や社長さんは、新しく入ってきた人たちにたいして「初心を忘れないで頑張ってください」といって激励します。
しかし、実は、世阿弥が「初心忘るべからず」ということばで言おうとしたのは、くじけそうになった時に、初心にかえって頑張れ、というような意味ではありません。これは、初心者にたいする戒め・教訓ではなく、能という芸の道を歩む人の一生を通じて常に心得ておくべき教えとして述べたものなのです。
私事で恐縮ですが、今年のお正月、お寺の総代会の日を選んで、私は二十一歳になった長男の得度式を行いました。その時「初心忘るべからず」ということばの重みをあらためて実感いたしましたので、しばらくそのお話をしてみます。得度の得は「得る、獲得する」の得という字であり、度は温度の「度」という字を書きます。仏教で度といえば、迷いの世界からさとりの世界に渡ること、仏の世界に導き渡すこと、を意味します。そして得度は、「出家して僧侶になり、僧籍に入ること」を示す言葉です。ですから「得度」したと言えば、坊さんになる道に入った、ということです。学校に入る時に入学式があるように、お坊さんになる、仏門に入る式が得度式です。
 得度式では仏門に入る者の師となる僧(戒師)が儀式を執行します。その流れを簡単に説明してみましょう。
 まず、師の僧侶が本堂の御本尊のまえで、これこれの者が仏門に入ります、ということを言上します。そして、得度を受ける弟子の髪にかみそりをあてます。これがいわゆる剃髪の式です。次に師の僧は弟子と一連の問答をかわします。その目的は、師の問いかけに対して、弟子が本当に戒・本尊・お題目を終生(仏になるまで)よく保ち続けるかどうか、その意思・決意を確認するためです。弟子がしっかりと答えると、引き続いて師僧は法華経と御遺文、法衣(墨染のころも)・袈裟・数珠を授与します。また出家してからの名前も与えます。これで弟子は正式に仏門に入ることになったわけですが、今度は弟子の方が、その出家の覚悟といいますか、仏門に入る決意を親に次のような決まり文句で告げます。
 「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」
これを書き下し文で言いますと、
 「三界の中(うち)に流転し、恩愛断ずること能(あた)わず。恩を棄て無為に入るは、真実の報恩なり」
となります。
 この意味は、「この迷いの世界に生まれ、それに流されながら生活している者にとって、親に対する恩・愛着の気持ちはなかなか断ちがたいものです。しかし、その恩愛を捨てて、仏の道に入ることが、本当の意味で親の恩に報いることです」ということです。
 私は今年五十五歳になりましたが、得度したのは二十二歳の時でした。その得度式の思い出といえば、正坐がつらかったことと、「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」という文句がちんぷんかんぷんでなかなか暗唱できなかったということです。三界とか無為という仏教語の意味もよく知りませんでしたし、親子の愛情は断ちがたいということも、実感として理解できてはいませんでした。
得度式というのは、めったにないことと申しますが、つまり僧侶になる人にとっては一生に一度しかない式です。また師の僧として誰かを仏門に入らせる、つまり得度させるという機会もまれです。私も得度式を主催して弟子を得度させたのは、今回が初めてのことでした。当日はそれなりに緊張しましたが、式の終了後、参列して下さったお檀家の方々からお祝いと喜びの言葉をかけていただいて本当に感激いたしました。
 正直に申しますと、自分が得度した時よりも、息子を得度させた今回のほうが、感銘が大きかったです。得度式の式次第にこめられた意味が、やっと身にしみて理解できました。そして、自分が得度した時を振り返ると、あの時はなにも分かっていなかったんだなと痛感し、またこれから弟子を育てる責任をひしひしと感じました。かつて自分が得度した時も、初心であったわけですが、今回息子を得度させたのもまた初心であることに思い至ったわけです。
 先ほど触れた「初心忘るべからず」について世阿弥の説明を見てみましょう。まず、若年つまり若い時の初心を忘れない、というのは、若い時の未熟な芸を忘れるなという意味です。つまり以前の欠点や失敗を自覚し反省することによって、芸を高めていくようにしなさい、と教えています。みなさんも経験されたことがあると思いますが、勉強や習い事は、自分がわからないところを習ったり、失敗をあらためていくことによって進歩する、ということです。
次に老後の初心忘るべからす、と教えています。つまり老後もやはり初心が大切なのです。生涯初心を忘れることなく、初心を子孫に伝えよと説いています。そして世阿弥こう言います。
 「命には終わりあり、能には果てあるべからず」
これは「命には終りがあるけれども、その人の能という芸には限界があってはならない」という意味でしょう。
 人の命には終りがあります。しかし、初心をもって取り組んでいる限り、行きどまりということはありません。これでもうおしまいだと決めてはならないのです。
 私たちと仏の教えの関係においても、この初心ということが当てはまるように思います。私たちの命には終りがあります。しかし、仏の教えを学び信じるという行いは、初心を忘れず継続されなければなりません。そこには果て・行き止まり・限界というものはないのです。
 日蓮聖人は1260年、正しい仏教が行われてこそ、国の平和が実現するという確信・信念を説き明かした著作『立正安国論』を当時の幕府の執権、北条時頼に提示しました。しかし、立正安国の教えは、鎌倉幕府に受け入れられず、かえって迫害をうけることとなりました。それから20年余りの後、日蓮聖人は臨終に際し、集まってきた弟子たちに最後に講義されたのが、ほかならぬ『立正安国論』でした。私たちも「命には終わりあり、立正安国には果てあるべからす」という心構えをもって、日蓮聖人の精神を受け継いで行きたいものです。
 本日は、瀬戸内市長船町福岡の日蓮宗妙興寺、岡田行弘がお話いたしました。