明けまして おめでとうございます。皆様方の 今年一年間の御健康をお祈りいたします。
さて、新年を迎え、ご家族に 氏神様に 御先祖様に御挨拶をされたと思います。 ですが日常の生活の中に於いてはどうでしょうか…    朝起きたら「おはよう御座います。」 お昼には「こんにちは。」 ご飯を食べる時には「頂きます。」等と 挨拶が出来ているでしょうか…      
挨拶とは 自分が出会う相手に対して 感謝と敬意を示す 人間として最も初歩的な行動であります。 そこから人間は 両親に 恩ある人 に 敬意を持つことを学ぶのであります。 

 文永八年(1271年)9月12日 日蓮聖人のご生涯で もっとも大きな事件 龍口の法難が起ります。
 日蓮聖人は、地震や大雨による災害・強盗や大火事 内乱などによる 被害にあえぐ世の中を見て、『法華経こそが人々を救う唯一教えである』と考えられ 『他の宗派の教えでは この世の中の人々を救うことは 出来ない。』と批判をされました。 その結果、鎌倉幕府によって捕えられ、日蓮聖人だけでなく お弟子さん・信者さんまでも
『投獄される』 『追放される』等の 厳しい処罰を受けました。
日蓮聖人ご自身も 鎌倉の龍之口の地において 斬首の危機に直面し、 からくもこれをまぬがれ、当時、一度流されると二度と生きては戻ることができないと云われた 佐渡の国へ 流罪の身となられます。
そして また、日蓮聖人が将来を期待されていた 少輔房・能登房・三位房 といった お弟子たち また、長年に渡ってお題目信仰を共にしてきた 名越の尼・領家の尼といった 多くの信者たちは、幕府の弾圧を恐れて 日蓮聖人のもとを去っていきました。
 そんななか、お弟子の一人である大国阿闍梨 日朗上人は、他の四人と共に、鎌倉の『土の牢』に投獄されてしまいます。
 日朗上人が日蓮聖人の門に身を投じたのは、建長6年(1254年)のことです。以前より日蓮聖人の門下であった 叔父の日昭上人にともなわれて 鎌倉の松葉が谷の日蓮聖人を訪ねます。幼名、吉祥麿。後の日朗上人はその時、十歳のあどけない稚児でありました。日蓮聖人の弟子の多くが 天台宗出身であったのに対し、日朗上人は 純粋に日蓮聖人のもとで育てられ 教育を受けました。 即ち、幼い日朗上人にとっては 日蓮聖人は師匠であると共に 親でもあったわけであります。

龍口の法難がおこる頃には、日朗上人は27歳であり、常に日蓮聖人につき随い 修行に励んでおられました。そんな日朗上人にとって 日蓮聖人と引き裂かれた龍口の法難は 非常に耐え難い 苦しみでありました。ましてや日蓮聖人が 斬首の危機にあい、一命≠とり止めながらも 今また、生きて帰ることのできない 佐渡の国へ 流罪の身となられた事を思うと、お師匠様の身の安否はもとより、そばにつき随うことのできない わが身を大変に悔やまれた事でありましょう。

そんな時、日蓮聖人から次のようなお手紙が届きます。
『今月七日、いよいよ佐渡の国へ出発することとなりました。あなた方は法華経を信じるが故に 難に遭い、身をもって 法華経への信仰を 貫かれたのであります。その功徳というものは あなた方自身は 言うに及ばず、父母 兄弟 ご先祖様に至るまで 及ぶ事でありましょう。今宵の寒さを考えると、自分の身体の事よりも 牢獄の中におられる  あなた方のことが心配であります。御赦免となったあかつきには 必ず佐渡へおいでください。お互いの無事を確かめあいたいものです。』
獄中の5人に宛てられたこの『土籠御書』と呼ばれるお手紙からは、短い文面ながら 弟子に対する日蓮聖人の深い深い愛情を感じることができます。また、この手紙を受け取られた 日朗上人をはじめとする獄中の弟子たちは、身を凍らす寒さを忘れ、感激に打ち震え、何度も何度も繰り返し 読み返された事でありましょう。
日蓮聖人はこのどん底の状態におかれていても 弟子たちを励まし『法華経を信じる人は冬のごとし、冬は必ず春となる』と信じて一生懸命にお題目をお唱えされておられました。

文永11年(1274年)2月14日に出された日蓮聖人のご赦免状は、3月4日に日朗上人の手によって佐渡の国へと もたらされます。

日蓮聖人が 現在の山梨県にある身延山に入られたのち、日朗上人は鎌倉に残り、教団の中心的役割を担い、弟子や信者の教育にあたられます。日蓮聖人が亡くなられる時には、叔父の日昭上人と共に 後事を託された6人の弟子の1人に選ばれます。
日朗上人の功績の一つとして よくあげられるものは、現在の東京都太田区に 当時領主であった池上宗仲公の支援を受けて、池上本門寺を建立したことです。そのお寺にある日蓮聖人の座像は、日蓮聖人の七回忌の法要の時に納められたものであります。そのお姿は 等身大の大きさであり 在りし日の日蓮聖人に最も近いと云われています。その右の御手には 日蓮聖人が生涯 手離すことのなかった お母様「妙蓮尊尼」の遺髪を持たれております。これは 生前 ご両親に孝養を尽くしたいと 切に願うも 念仏の信者である故郷の領主に 何度も何度も命を狙われ ついには故郷にたち戻ることができず 叶わなかった日蓮聖人の『親孝行の願い』を表す 象徴であります。このご両親様へ対する感謝の気持ちを後世に伝える為 日蓮聖人の右手には お母様の遺髪が握られているのであります。

日朗上人は 常に日蓮上人と苦楽を共にされ、誰よりもお師匠様のことを思い お仕えするそのお姿は 子が親に尽くす姿に似て 『お師匠様想い第一≠フ日朗上人』と称賛されています。
その日朗上人に育成され 精神を引き継いだお弟子の日像上人、その精神を更に引き継いだ孫弟子である大覚大僧正妙実上人。
この大覚大僧正妙実上人は、備前の国、現在の岡山に御題目信仰を広められた方です。
私達は、この精神を引き継ぎ、お師匠様にお仕えする日朗上人の姿に倣い、南無妙法蓮華経とお題目をお唱えし、まずは両親から そして恩ある人すべてに感謝の気持ちを持つことの 大切さを学ばなければなりません。