皆様おはよう御座います。本日も早朝から仏教アワーをお聞き下さり、まことに有難う御座います。今朝は、倉敷美観地区にあります、日蓮宗・本栄寺住職の安井智晃がお話させていただきます。暫くのあいだお付き合い下さい。
テレビ、ラジオ、新聞、週刊誌など、さまざまなマスメディアからは、日々、膨大な情報が送られています。それを目にした当座は大変な衝撃を感じても、しばらく日が経つと、もう次の出来事に関心が移り、世間をあれほど騒がせた事件も過去のものとなり、やがて忘れられていきます。その中で、いまだに私の心から離れない事件があります。それは、元横綱・朝青龍の引退騒動です。皆さん、まだ覚えておられますか?
事の発端は、今年一月の初場所中に東京都内で泥酔したうえ、知人男性を殴って怪我をさせた一件です。連日の報道を見ながら、「過去にも数々の騒動を起こした横綱だから、今度こそは厳罰かな? また出場停止になるのかな?」などと思っていましたが、まさか引退までいってしまうとは思いませんでした。
ちょうど同じ日に、民主党小沢幹事長が不起訴になりました。二つのことを報じるニュースを見ながら、そのあまりの対照さに、しばらく言葉がありませんでした。
朝青龍は記者会見で、「けじめをつけるのは僕しかいない。運命じゃないかと思う」と語り、引退後については、「何も考えていない。ちょっと休みたい」とも語りました。絶頂期には、年間六場所制覇。大鵬を抜く史上初の七連覇。北の湖を越える二十五回の優勝など、確かに強い横綱でした。しかし、その一方で、強さとは対照的に、常に品格問題が取りざたされた横綱でもありました。
私は、涙を拭きながら引退会見をする朝青龍を見ながら、何かとても腹立たしいような、割り切れない気持ちになりました。それは、隣に座っていた、師匠である高砂親方の存在です。高砂親方も監督責任を問われ、日本相撲協会の役員待遇から主任へ、二階級の降格処分になりました。しかし私は、こうなる前に、どうして師匠としてちゃんと指導出来なかったのか、という思いでいっぱいになりました。
引退会見翌日の二月六日の読売新聞「編集手帳」欄には、このように書かれていました。
『相撲部屋の親方とは、本来、第一級の教育者を指す言葉に違いない…親方はどういう指導、監督をしてきたのだろう。騒動のたびにあたふたするばかりの高砂親方は、「教育者」というよりも、所属タレントの不始末処理に頭を下げてまわる体格のいい芸能マネージャーのように見えた』
朝青龍が騒動を起こす度に、親方の指導力が取りざたされていましたから、この新聞記事に書かれていたことは、おそらく誰もが感じていたことではないでしょうか。
親方である以上、強さや技術を教えるだけではなく、横綱という最高位にふさわしい、人格や考え、振る舞いといった、人間の中身や進むべき道を教えることが、その責任ではないでしょうか。酒に酔って暴行事件を起こし、その責任を取っての引退は仕方がないし、当然のことかも知れませんが、そのような横綱をつくってしまった師匠の責任も大きのでは無いでしょうか。
さて、この師匠と弟子という師弟関係は、相撲界だけではありません。料理の世界にもあるし、物を作る世界にも、学問や伝統芸能の世界にも、我々の周りには、この師弟関係で成り立っている世界がたくさんあります。この関係の中で、弟子は師匠から、技術的なことはもちろんですが、心構えや態度、言葉遣いといった、人間の中身と、進むべき正しい道を教えられ、やがて一人前に成長し、その弟子がやがては師匠となり、また新たな弟子を指導していく。これが師弟関係ではないでしょうか。ですから、師匠の責任は重大です。もし師匠に力量がなく、その器ではなかったとしたらどうでしょう。そんな師匠の下についてしまった弟子は悲惨です。もしかすると、一生を台無しにされてしまうかも知れません。そうならないためにも、師匠には、技術的なことはもちろんですが、人間としての大きさや、ふところの深さが求められるのではないでしょうか。
我々お坊さんの世界でも、もちろん師弟関係は厳格です。たとえ親子と言えども、一旦出家すれば、「親と子」から「師匠と弟子」となります。親である師匠は、子である弟子に対し、お経の読み方や所作、着物の着方といった僧侶としての技術はもちろんですが、僧侶とはなにをする存在なのか、困っている人、悩んでいる人、苦しんでいる人たちに、どう向き合えばいいのかということを伝えなくてはなりません。責任は重く重大です。
すべてのお寺で、このような厳格な師弟関係が保たれていればいいのですが、残念ながら、中には「師匠の顔が見てみたい」と思う小僧がいたり、逆に「あの師匠からどうしてこんなしっかりした弟子が」と思うこともあります。しかし「反面教師」にされるようでは、師匠も終わりです。
このラジオをお聞きの方の中にも、このような師弟関係を結んでおられる方もいらっしゃるかもしれませんが、そうでない方には、何か特別な世界の話に思えるかも知れません。しかし、この関係は多くの一般家庭の中にも存在しています。それは「親子関係」です。しかし、残念なことに、崩壊している師弟関係があるように、壊れてしまっている親子関係も数多くあります。子供の虐待事件は年間何件報告されているんでしょうか。テレビや新聞の報道は氷山の一角で、報道されていない虐待は無数にある、とも言われています。虐待と聞くと、何か体を傷つける暴力を想像してしまいますが、育児放棄や無視といった、精神的な暴力も含まれます。
家庭の中の親の役割とは何でしょう? 子供を導き、子供を見守り、子供を助け、子供の手本となり、必要とあらば厳しく叱り、甘やかすのではなく、子供がまっすぐ成長するように、子供が安心してのびのびと話し、のびのびと遊び、のびのびと学ぶ。そんな環境を作るのが、親子関係での師匠である親の役割ではないでしょうか? ですから、親の役割はとても重大です。責任の重さや自覚に欠ける師匠の下では、良い弟子が育たないように、自覚に欠ける、未熟な親に育てられる子供は悲惨です。師弟関係は途中で解消することが出来ますが、親子関係は解消することが出来ません。横綱朝青龍は、師匠から、相撲の強さという技術的なことは教わりましたが、横綱の精神性という内面を教わることが出来なかったため、道を誤ってしまいました。
親子関係も同じだと思います。ご飯を食べさせ、服を買い、学校や塾に行かせる。生活に必要なものだけを与えていても、子供は本当の意味で成長出来ないんです。成長とは、体もそうですが、心、精神的にも大きくなって、はじめて成長と言えるのではないでしょうか。そして、子供の心を導いて、より大きく、深く育てていく、これが親子関係での師匠である親の役割だと思います。
海にある灯台を想像してください。真っ暗な海でも、船が座礁しないように、航路を誤らないように、灯台はいつも進むべき道を教えています。船は、灯台の光を頼りに、真っ暗な海でも安心して航海することが出来ます。
しかし、実際に進んでいるのは船です。灯台が船を引っ張って進めている訳ではありません。灯台はその場を決して動かず、しかし、いつもいつも絶えることなく光を送り続けています。
もし灯台がその日その日で場所を変えてしまったとしたらどうなるでしょう。船は安心して進むことは出来ませんね。
家庭内での親の役割とは、この灯台のようなものだと思います。
本日は、倉敷美観地区にあります、日蓮宗本栄寺住職の安井智晃がお話しさせていただきました。最後までお聞きくださり有難う御座いました。