皆様おはようございます。       
今朝は井原市、美星町、妙昭寺の住職、高尾龍進がお話しをいたします。
 夜中、お風呂に入り「そろそろ十二時だから寝ようかな」と、思っていると、電話がかかってきました。この時間、夜中の電話はだいたい用件は、決まっています。
「ハイ。親切丁寧な、妙昭寺です」と、言わないで「モシモシ」としか、当山では言わないことにしています。実は色んなセールス電話がかかってき、「振り込み詐欺」に引っ掛かってはいけないので、いつの間にか「ハイ妙昭寺」を、やめて「モシモシ」と、応答することにしています。
さて、「モシモシ」と言いながら、この夜更けに誰だろうと、頭のコンピューターを働かしています。
「お寺さん。妙昭寺さんだろう」聞き覚えのある声です。
「今晩は。この夜中にどうしたでー」
「お寺さん。実はばあちゃんが、逝ってしもうた。」
 確か、この家のおばあさんは、入院していたんだがなーと、思いました。
「病院から連れて帰られたんかー」
「いやー。そうじゃーねんだー。ばあちゃん
帰りたい、家に帰りたい、家で死にたいと言うので、家に連れて帰って看病していたんじゃー。それからはお医者さんに、往診に来てもらっていたんじゃが、それがー、さっき息を引き取ったようなんで、連絡したんじゃー。すまんけど、枕経に来てもらえんかなー」
 またもやコンピューターが働きます。
これから枕経に行っても、明日の葬式にならないし、せっかく寝る気になっていることなので、ちょっと、しぶってみようと。思いました。
「これからかー。お医者さんにはもう診察してもらったのかー」
「いやー、これから先生は、「来てやる」と言ってくださったんじゃ。だから、先生が済んだら連絡するから、来ておばあちゃんを、拝んでやっておくれえー。お上人、こねえだ親戚の法事に来て、人が死んだら、閻魔さまが亡くなった人の体に、「釘を打ち込む」と、言うたが、お経を読むたびに、その釘が「抜けるんじゃ」と言うたが、だから少しでも早く、釘を抜いてやりたいんじゃ」
 大体、お医者さんのあと、お寺と決まっていて、お寺のあとお医者さんが来ると言うのはあまり例がありません。遅くなっても先に行くわけにはいかないので、待つことにしました。
「これから、寝よううと思っていたのだが、起きていてよかった。あんたのその「少しでも早くお経をあげて欲しい」と、いうお母さん思いには、私も行かなくちゃー駄目だろうよ。お医者さんが終わったら連絡してくれる」と、親思いの孝行息子に従いました。
 その法事で話した釘の話を、いたしましょう。
 日蓮聖人が三十五歳の時に、待従殿に書かれた、ご文章の回向功徳ショウに「涅槃経にこのように書かれています。閻魔さまが亡くなった人の、生きていた時のいろんな行いを、考えて、四十九本の釘を身体に打ちます。      
まず目に二本、耳に二本、舌(ベロ)に六本、胸に十八本、腹に六本、足には十五本です。その釘の長さたるや一尺、三十センチもあります。
 ところが、その亡くなった人の、息子さんが、亡き父の菩提をとぶらうために、お坊さんを迎えに行くと、閻魔大王はまず亡くなった人の足に打ってあった、一尺の釘、十五本を抜き取り、自由にしてやります。
 どうして足の釘を抜いたかというと、供養をするためにお坊さんを迎えに行ったのは、功徳の初めであるからです。
 次いで、お坊さんが来て仏像を造り、お経を書くと、腹の十八本の釘を抜き、開眼すると胸の釘を抜き、お経を読み上げて、亡くなった人のために、「説法したまえ」と言うと、お経を聞くために、耳の釘を抜き、仏を見上げて拝む時に、眼の釘を抜き、残された遺族たちが、亡くなった人のために、声をそろえて    
お題目、「南無妙法蓮華経」を唱えると、亡くなった人も、一緒にお題目を唱えるので、舌に打ってあった釘が、抜かれるのです。
 岡山市内で四十九日忌の法要の時、餅を引っ張って食べることをするのは、この釘を抜くことだ。と思います。
 母を思う気持ちが強く、母に感謝をして、母が苦しむことが、少しも無いようにと考えるのは、子供のやるべきことなのです。
 亡くなった人の生前の行い、罪障も、残った人々の供養することで、少しずつ消滅し、仏さまに近づくのです。
 最近は少し痴呆が始まると、介護施設に行き、ディサービスを受け、病気になったら入院し、何ヶ月ごとに転院し、亡くなると葬儀センターに連れていってもらい、お葬式をしてもらい、火葬場に送られて、一回も家に連れて帰ってもらえない、仏さまもあります。
 もっと激しいのは、亡くなった病院から、そのまま火葬場、そして、お骨はいりません。
 亡くなった人を、そのままにしていると「死体遺棄」と、いう罪になるからです。だから火葬だけはするのです。           
 でも、人として、人間としてなんだか悲しくなりませんか。
 動物すべて、親は子供を一生懸命育てます。
愛情を持って、汚いこと、危ないことは、親がしてやり、食べ物を探して、自分は少しだけで、我慢をし、できるだけ子供に、食べさせとうとします。自分は寒さに震えても、子供はふところに入れて、寒さから守ります。そして親は、いっときも子のことを、忘れることはありません。
我が家の、三代前の飼い犬、ゴン太を貰って来て、ひと月ほどたち、母親の所に連れていきました。ひとしきり母と子はじゃれあって、遊んでいましたが、帰る時間になったので、口笛を吹くと、母親の所を離れて、こちらに走って来ました。
 母親は、そっちに行くな、こっちに来いと「クイーン、クイーン」と、子犬を呼びますが、知らん顔をして、走って来ました。
 私たちは人間です。教育で教養を身に付け、衣服を身にまとい、文明を謳歌し、ほかの動物たちとは、違います。ほかの動物たちが、しないこと、人間、人しか出来ないことは、孝養、親孝行です。
 でも最近は、その動物と変わらなくなって、きているような気がします。
 日蓮聖人も、親孝行について、次のように書かれています。
 父や母に衣服や、食べ物を差し上げるのは、あたり前である。父母の心に従うのが、その上であり。存命していられる父や母に、功徳、善い行いをするのが一番です。ましては亡くなった親に、ご回向するのは、言うまでもありません。
みなさん。犬や猫と同じようにならないように、いたしましょう。  今朝は井原市美星町妙昭寺住職高尾龍進がお話しいたしました。  
 当山、妙昭寺では八月一日から一か月、いろんな幽霊が出ています。昼も出ていますので、会いに来て下さい。
 みなさま。今日も良い日でありますように。南無妙法蓮華経。