おはようございます。本日は備前市妙圀寺平野泰真がお話させていただきます。
明日で東日本大震災からちょうど一年になります。各地で慰霊追悼の法要が行われることと思います。心からお亡くなりになられた方へのご冥福をお祈りいたします。南無妙法蓮華経。
震災から一年が経ちますが、あの日の悲しい記憶はけっして忘れられるものではありません。
先日新聞に「命の防災無線」を教材に。という見出しをみました。テレビでも取り上げられましたので、ご存じの方も多くいらっしゃると思います。
宮城県、南三陸町の防災対策庁舎から、防災無線で町民に避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になられた町職員、遠藤未希さんが埼玉県の公立学校で4月から使われる道徳の教材になるとのことです。そこには次のように書かれています。
誰にも気さくに接し、職場の仲間からは「未希さん」と慕われていた遠藤未希さん。その名前には未来に希望を持って生きてほしいと親の願いが込められ「未希」と名付けられた。未希さんは4年前、今の職場についた。震災の年、平成23年の9月には結婚式を挙げる予定であった。
突然ドドーンという地響きとともに建物が大きく揺れ始めた。「地震だ!」今までに誰も経験したことのない強い揺れであった。未希さんは「すぐに放送を」と思った。防災対策庁舎の危機管理課で防災無線を担当していた。「大津波警報が発令されました。町民の皆さんは早く、早く高台に避難してください」未希さんは祈る思いで放送をし続けた。地震発生から20分後。「潮が引き始めたぞー」午後3時15分「津波がきたぞー」という叫び声がきこえた。未希さんは両手でマイクを握りしめて立ち上がった。そして必死の思いで言い続けた。「大きい津波が来ています。早く、早く、早く高台に逃げてください。早く高台に逃げてください。
その声は絶叫に変わっていた。
津波はみるみるうちに黒くその姿を変えすさまじい勢いで町をのみこんでいく。信じられない光景であった。
未希さんをはじめ、職員の目の前に津波がせまってきた。「きたぞー。絶対手を離すな」という野太い声が聞こえてきた。津波は庁舎の屋上にも一気に襲いかかってきた。それは一瞬のできごとであった。
「おーい、大丈夫か」力のない声がした。30人ほどいた職員の数はわずか、10人であった。しかしそこに未希さんの姿は消えていた。
それを伝えしった母親の美恵子さんは娘の帰りを待ち続けていた。
未希さんの遺体が見つかったのは、それから43日目のことであった。
町民約1万7700人のうち半数近くが避難して命拾いをした。
しめやかに葬儀が行われた。会場に駆けつけた町民は口々に「あの時の女性の声で、無我夢中で高台に逃げた。あの放送がなければ今ごろ自分は生きていなかっただろう」と涙をながしながら、未希さんの写真に手を合わせた。
出棺の時、雨もふっていないのに空にひとすじの虹がでた。未希さんの声は「天使の声」として町の人の心に深く刻まれている。
ということです。
本当につらいことであります。しかし未希さんのおかげで多くの命が救われました。お母さんの恵美子さんは「娘は自分より人の事を考える子だった。子供たちにも、思いやりの心や命の大切さが伝わればいい」と話されています。
私たちはこのことから何を学ぶことができるでしょうか。
日々の自分のことを考えますと、反省し、はずかしくなります。
私たちの読むお経に「末法には菩薩があらわれる」とあります。
これは、人の心もみだれ、災害が続く世の中に、それを救おうとする菩薩さまが現れるということです。
ある先生が、「今のような時に、必ず、人のために、世の中の為にと行動する、仏さまの心をもった人が必ず現れる。反対に言えば、安穏な、なにも悪いことのない世界に菩薩は現れない。皆が大変な思いをしている時にこそ菩薩さまは現れる。それは、被災地で命をかけてみんなを助けたひとであり、それを手伝った人であり、遠くからみんなの無事を祈ったひとであるかもしれません。」とおっしゃられました。
私たちは、未希さんの必死に避難を呼びかけた、この思いを、引き継いでいかなければなりません。
最近、次の地震がいつ来るのかを一生懸命予測しています。しかし相手は大自然です。いつも想定外という言葉が続いてきます。
ある学者さんはこのように言っています。
「たとえば火山の一生を人の一生とすれば、いつ噴火するかは、その人がいつくしゃみをするか、という感じでしょうか。くしゃみは鼻がむずむずするが、地震はもっと予兆がとらえにくい。」と地震の予測をすることがいかに大変なことであるかを例えています。
私たちはいつなにが起きてもいいように強い心を訓練していかなければなりません。
では強い心とは何でしょうか。
宮城県で仮設住宅自治会長をなさっておられる畠山扶美夫さんのお話しをご紹介したいと思います。畠山さんは次のようにおっしゃっています。
仮設住宅に移った今も、多くのボランティアに助けられています。その一方で、私たちの間では最近「そろそろ自立しなければ」という声が聞こえてくるようになりました。
もともと、被災したこの地域は、東京や仙台などの大都市から遠く離れた地域だったため、「自分たちの事は自分たちできめる」という自立・自決の空気が強く残っている土地なんです。ところが最近、高台移転の議論などをしていると「行政が悪い」「国はなぜ○○してくれないんだ」と他人任せにする意見が目立って聞かれるようになりました。
「私たちはこの11カ月間で「もらうこと」に慣れてしまったのではないかという人もいます。もしそれで「自分たちで決めてきた町」が「誰かにやってもらう町」になりつつあるのだとしたら、私はとても恐ろしいことだと思います。
交通が不便で、経済的には決して豊かとは言えないこの地域では、組織や行政の力ではなく、個人一人一人が踏ん張ることで、独自の文化や風習を、長年、親から子へと伝え、育んできました。自立性を放棄してしまえば、地域社会そのものが崩れてしまいかねません。環境の厳しい北国で生き抜くためには、どうしても自分の足で立ち上がる力が必要なのです。粘り強さが東北人の持ち味であるように。
このようにおっしゃっています。私はこれが、強い心の一つではないかと思いました。畠山さんの「個人一人一人が踏ん張ることで、独自の文化や風習を育んできた」という言葉に、これからの復興への大きな力を感じます。
一人一人が考えて行動する。これはとても大切なことだと思います。
これは私が感じたことですが、最近、道路に信号機の数が増えたように感じます。こんなところに信号がいるのかな?とおもうようなところにも設置されています。安全の為でしょうか。赤信号を守らない人が悪い、青ならその人が進んでいいものだ。その通りだと思います。しかし、そこには思いやりや譲り合いというような、はっきりしないもの、形にみえないものはすべて排除されているように感じます。必ず悪い人と正しい人、白黒をはっきりさせようとします。信号ですから赤と青でしょうか。
私たちは極力考えなくていいように、または考えさせられないようにされているように感じます。自分で考え、相手を思いやるようにしなければ、我慢も忘れ、自分でなんとかしようとする力を失います。
そこはなにか殺伐とした、なにも考えのない社会になる気がしてなりません。先程の畠山さんの言葉をおかりすれば、「誰かにやってもうらう町」になってしまいます。
そうならない為にも「個人一人一人が踏ん張る。」
この思いを大切にしていかなければなりません。
最後に、一つのエコをおすすめしたいとおもいます。
うちでは、テレビが一台です。それは居間にあります。そうしますと自然と人がそこに集まります。ストーブもここだけつければすみます。こたつも一つで間に合います。そうすると会話がふえます。ケンカもふえます。しかし、笑いも増えます。
昔はたき火をするのにも、まわりの人に「たきびするからおいで」と声をかけ、資源を大切にし、そして皆で一緒に温まっていたそうです。
一人でいることは周りに気を使わなくていいので、とても楽です。
しかしちょっと無理して、ちょっと頑張って周りの人と一緒にいる時間を増やしましょう。
これが、私のおすすめするエコです。
困ったときほど、人とのつながりに救われることはありません。また自分が相手に何かしてあげたい、という思いも強くなります。
本日も皆さまによい出会いがありますようお祈りいたします。
今朝は備前市妙圀寺平野泰真がお話させていただきました。どうもありがとうございました。