RSKラジオをお聴きの皆様、おはようございます。今朝も元気にお目覚めのことと存じます。今朝は、赤磐市周匝にあります日蓮宗蓮現寺住職の堀江宏文がお話をいたします。
皆様の周りに、何か物事が成功しますと、それはこれまでの自分の努力のおかげだと言い、反対に物事が失敗し、悪い結果を生み出した時には、人のせいだ、というような話をする人はありませんか。一生、思い通りに事が進んでゆけば良いのですが、良い心算で行ったことが悪い結果を生んだり、確信してかかったことが失敗に終わったり、仲良くしたいと思いながらもいつしか争わなければならなくなったり、無理難題を持ちかけられたり、不本意なことばかり相次いでやって来ることもあります。人は誰でも苦難の時、なぜ自分だけがこんなに苦しく悲しい思いをせねばならないのだろうかと、仏を呪い、天を恨む人もいることでしょう。仏教には因果応報という教えがあります。この世の中のすべてのことは必ず原因があってそれ相当の結果が生じる因果関係のことです。
例えば、朝起きてみるとお腹の調子が良くない。トイレへ行ってみる。案の定である。どうしてだろう。原因を訪ねてみると、昨夜は蒸し暑く寝る前に冷たいものを食べ過ぎてしまった。そのうえ一晩中エアコンを入れたままで、すっかり布団を蹴飛ばしてしまって、寝冷えをしたことに思い当たる。この時期よく経験することですね。
また家庭に問題が起きたとします。例えば子供の事。自分の子供の素行が良くなかったり、成績が悪かったりしますと、それは学校のせいだ、先生のせいだ、友達が悪いのだとか、人のせいにしがちです。しかも「とにかく学校へ行け。行かなければ始まらない」と、無理に学校へ行かせる親御さんもいます。當山では、お檀家さん以外にも宗教や宗派を問わず様々な方が色々なご相談にお見えになります。そのなかには、わが子が不登校になってしまい、悩んでお参りになる方もあります。仏教の教えによりますと、物事の結果は自分の責任であると教えます。自分が作った悪業もまた自分に返ってくるというわけです。ところがご祈願をしてみますと、本人にやる気が無く、ただ怠けているという場合もありますが、学校や先生の対応があまり良くない場合、友達との関係に問題がある場合もあれば、家庭に問題がある場合、家族の調和が取れていない場合、夫婦仲に問題がある場合など、必ずしも本人に直接原因があるばかりではなく、本人を取り巻く周りの環境や条件が悪く、それによって不登校せざるおえない状況に追い込まれたお子さんの事例もあります。
仏教では偶然は全てにわたって起こりえないと説きます。全ての出来事が必然であり、必ずその原因があるのです。私たちは自分に原因がわからないことは、偶然だといって片づけてしまいますが、それは因果関係がないということではなく、自分自身が気付かなかったにすぎないのです。このように私たちの日常生活で起こるあらゆることが、因果関係で結ばれている事を知る時、良い種まきがいかに大切であるか痛感せずにはいられません。
しかも原因が結果に至るまでにはその間に「縁」というものがあります。すなわち条件や環境を如何に整えていくかということも心しなければなりません。折角良い種をまいてもその後の手入れを怠り、悪い環境を作ってしまったのでは、決して良い実は出来ないのと同じ筋道です。各地で田植えが終わりました。しかし田植えが終わってもそれでおしまいではありません。秋の刈り取りまで水の管理、稲の病気や害虫対策、毎日の天気や気温に気を配るなど様々な手入れを施していって、小さな苗が大きくなって稲となり、その稲が実り、たくさんのお米となるのです。稲が実らなければ、ただの草でしかありません。苗が変じて米になるには、より良い環境作りと時間が必要なのです。
悪いことをしても、誰も見ていないから、わからないだろう。人に見つかりさえしなければ、誰もとがめません。また、良いことをしてもさっぱり自分に還ってこない。勉強をしてもさっぱり成績が上がらない。一所懸命仕事をしてもいっこうに業績が上がらない。こうなりますと、因果応報の教えも信じなくなってきます。しかしもう少し時間が経ってみると、やはりそうではないことがはっきりしてきます。原因と結果の間には、時間の短いものもあれば、長いものもあります。原因と結果がすぐに判明するようなことなら、私たちもめったに失敗はしないのですが、時間の差が大きくなればなるほど、因果関係の厳しさを忘れ、目先の欲だけで行動してしまい、あとで後悔してしまうことがあります。実は熟して落ちるのです。秋の味覚の果物は、実ったからすぐに食べられるのではありません。実ってから、まだまだ熟すまでは食べられません。熟して始めて枝から落ちる。すなわち、丁度食べごろになります。熟すまでには時間がかかるということです。
今年中に報われるもの、2,3年経って報われるもの、一生かかって報われるものと様々です。良いことでも、悪いことでも熟して始めて、その結果が出るのであります。人の行いも同じです。日蓮聖人は、
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(『開目鈔』)
と、お教えです。すなわち、過去において自分が何をしたかを知りたかったら、今の自分の姿を見なさい。今の姿が過去の行いの結果なのです。また将来の自分の姿を見たかったら、現在の自分の行いを見なさい。今の行いの結果が将来の自分の姿を決めるということです。たとえどんなに割り切れない思いでも、これは過去の自分が為したことのあらわれでもあるのだからと、よく耐え忍び、日頃から善い行いを積むように努力すれば、必ず未来に善い結果があらわれるのだと教えられています。
悪いことをしてもたいしたことはない、誰からも気付かれなければ大丈夫と思っていると、いつのまにか熟して落ちる時が来るのです。誰も見ていないからわからないだろうと思っても、必ずあとでその報いを受けなければなりません。厳正なる結果のことわりを知り、真理に合った生き方をしなければ、いくら頑張っても幸福になることは難しいのです。自分の欲望のみに執着した生活を送るところに、私たちの迷いと悩みが生じてしまうことに気付かなければなりません。油断してはいけません。今日からでも、少しずつ良い種をまいておきましょう。何事も因果応報なのです。
今朝は、赤磐市周匝、蓮現寺住職の堀江宏文がお話をいたしました。