おはようございます。本日は、岡山市北区船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話し申し上げます。
 野山の木々が赤や黄色にうつくしく衣を替え、秋色一段と深まってまいりますと、私ども日蓮宗寺院では、「お会式」の季節を迎えます。「お会式」は「お講」とも申しますが、日蓮聖人のご命日を偲ぶ報恩法要です。日蓮聖人の遺された教えやお題目によって、私たちが生き生きと幸せに暮らせることに感謝し、その御恩に報いる法要とそれに連なる様々な行事が「お会式」です。
 岡山市内中心部の日蓮宗寺院では、明日11月13日は、「お講めぐり」と称して、午前9時から午後3時まで本堂を開放し、どなたでもお参りいただけるようにしています。各寺院ごとに簡単なお接待もありますし、寺院巡り専用の御朱印帳も用意しています。本年はちょうど日曜日にも当たりますし、晩秋の一日をのんびりとお寺巡りで過ごすのもいかがでしょう。
 さて、秋は本当に素敵な季節です。灯火親しむ「読書の秋」、紅葉を訪ねる「行楽の秋」そして美味しいものがたくさんあって困ってしまう「食欲の秋」、運動会や各種スポーツ大会が開かれる「スポーツの秋」。仏教というとスポーツとは無縁に思えますが、先頃私ども日蓮宗では、檀信徒の方と一緒にスポーツを楽しみ、互いに親睦を深める行事として、「日蓮宗岡山県グラウンドゴルフ大会」を開催しました。10月24日、岡山市北長瀬の岡山ドームを会場に、県内30余りの寺院から、260余名の檀信徒が一同に会し、和気藹々とまた時に真剣に熱戦を繰り広げました。親睦が目的とは言いながら、皆さん日頃鍛えた腕を遺憾なく発揮され、素晴らしい成績を上げられていましたが、聞けば毎日のように練習をなさっている方もいらっしゃるとのこと。熱心さには舌を巻きます。
 そんな中参加されていたご高齢の女性の方がこんなことを話されていました。「私なんか週に二回しかグラウンドゴルフをしてないから、さっぱり駄目だわ。でも、今朝もお仏壇にお茶湯とお題目をしてきたから、さっきはホールインワンが出たんよ。」これを聞いていた男性の方が「わしゃ、お茶湯をしてきてねえから、ホールインワンが出んのか。早う聞いときゃ良かった。」仏さまがグラウンドゴルフのルールをご存知かどうか、わかりませんが、この女性はきっと翌朝、お仏壇に向かってお茶湯とお題目をする時に、ホールインワンの御礼をおっしゃることでしょう。
 このホールインワンは日頃の練習の成果かも知れませんし、偶然に起こったのかもしれません。しかし、この女性は日頃の信心のおかげ、今朝のお茶湯・お題目のおかげであると信じることが出来ます。感謝の念も生まれ、「ああ、良かったなあ」と幸福な気持ちになることでしょう。ここに幸せに暮らす秘訣があると思います。
 法華経の方便品の中に、「仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。唯仏と仏と乃し能く諸法の実相を究尽したまえり」とあります。「諸法実相」というすべての存在のありのままの姿を完全に知り尽くすということは、大変難しいことであり、仏さまにのみ出来ることであると説かれています。私たち凡夫の限られた能力ではすべてを知り尽くすこと、例えばその見た目の状況だけでなく、その原因や結果や他に及ぼす影響にいたるトータルなすべての姿を知ることは出来ません。
 その日、彼女がクラブで打った合成樹脂のボールが人工芝の上を真っ直ぐコロコロと転がり、ホールポストの旗の下にぴたりと止まった本当の原因を私たちは知り得ないのです。であればこそ、彼女は日頃のご信心のおかげだ、ありがたいなと謙虚に受けとめたのです。 日蓮聖人がご信者に宛てられたお手紙「法蓮鈔」の中に「法華経の文字は、一字一字がみな生きた仏であるが、我等凡夫の肉眼には、ただの文字としか見えない。たとえば、餓鬼にはガンジス河の水が火に見え、人には水に見え、天人には甘露に見える。同じ水でも、見る者がそれぞれうけている境遇の違いによってそれぞれ別の物に見えるのである。この法華経の文字は、私たち凡夫の肉眼では黒色の文字に見え、菩薩の法眼では種々の法門に見え、仏に成る種の熟した仏眼を持った人は、この文字を仏と見奉るのである」と説かれています。私たちの目に映っているものは、物事の表面だけであり、その本質は見えません。その見えている表面に実は私たちの心がそれぞれ解釈を加えます。ですから出来るだけ素直に受け取ること、良い方向で受けとめることが大切だと思います。
 「疑心暗鬼」という言葉がありますが、これは中国の古典「列子」から生まれた言葉です。ある男が鉞を失くしました。隣の息子が盗ったのではないかと疑いながら、その息子を見ると言動全てを疑わしく感じるようになりました。ところが、ある日、近くの谷底で失くした鉞を発見し、実は自分が置き忘れていたことに気づきました。それ以降、隣の息子の言動を見ても怪しく思うことは無くなったというものです。この話から「疑う心は、暗鬼を生ず」と喩えられ、「疑心暗鬼」という言葉が生まれました。「幽霊の正体見たり枯尾花」というのも同様な意味で使われますが、私たちは目で見ているようで、実は心で物を見ているのです。出来るだけ心素直に、偏見や邪推を持たないで、何事も受けとめることが大切なのですが、これがなかなか出来ません。そこで心を磨く修行、信仰が必要になってきます。
 日蓮聖人は、法華経の教えを広める御一生の中で、多くの苦難に遭われました。大難は四カ度、小難は数知れずの御生涯の中でも大難中の大難が日蓮聖人、まさに首切られんとしました龍ノ口の御法難でありました。その首謀者は、鎌倉幕府の執権北条時宗や幕府の有力者、平左衛門尉頼綱でしたが、日蓮聖人はこの時宗や頼綱を恨むことなく、逆に自分を本当の法華経の行者とした恩人であると受けとめられました。「恩を仇で返す」ことは世の中には間々ありますが、「仇を恩と受けとめる」ことはなかなか出来ることではありません。私たち凡夫が日蓮聖人にあやかることは難しいかも知れませんが、信仰で自らの心を磨き、素直な心で物事を受けとめるように精進いたしたいものです。それが私たちの本当の幸せへとつながっていくものだと思います。
 本日は、岡山市北区船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話し申し上げました。