お早うございます。岡山市北区上中野にあります正福寺院首稲垣宗孝でございます。朝の一時をお借りしてお話をさせていただきます。
さすがに10月。涼しくなってきました。まもなく全国から紅葉の便りが知らされるようになりましょう。この時期になりますと、涼しさを通り越して、朝夕はめっきり寒くなります。東北で震災に会われた方々、夏の暑さも大変だったでしょうが、北の地故、冬の寒さは格別でしょう。国や地方自冶体等では、出来るだけ暖房器具の普及やそのための設備の充実に努めていただきたいものです。
ところで、神戸淡路震災の時もそうでしたが、この震災の地域でも物資の奪い合い等は起こらず、避難場所では人々が整然とルールに従って生活している様子が報道され、諸外国からも称賛されました。 私も、テレビで瓦礫や崩れた家の中からお位牌を探し出して有り難そうに両手で持っている人を見たときには涙が出そうになりました。 これは東北という信仰心や道徳心の厚い所だからだとも思いましたが、家族として何よりも魂の繋がりを大切にしようする人々を見て、視聴者も改めて、人間の尊厳が何であるか、気づいた方も多かったのではないでしょうか。
それにしても、東北の被災した方々とは異なり、国内では、犯罪件数は以前より減ったと言われなからも、事件の質や内容はさらに深刻になってきているようです。昔は、少なかった乳幼児の虐待も、今は増加する一方とか。親子の間で、死亡を伴うような虐待がなぜ行われるのか、憤りや、悲しみで息苦しくなります。
つい先日も、東京都知事であり、作家の石原慎太郎さんの執筆した「新堕落論」を読み驚きました。東京都で最高齢と言われていた老人が実は30年も前に死亡しており、家族がそれを隠して、年金を受け取っていました。遺体は白骨化していたそうです。他にも、この事件を契機に、高齢者の不在や、行方不明が多数露呈してきているようです。
これまでは、まさかそのようなことはありえないと思われていましたが、今後は、むしろ、この種の事件が増えるのではないかと案じられてもいるとか。
この冊子を読み、私は、道徳心の低下、親への情愛の欠如、命の尊厳や魂の存在の無視などのを思い、目の前が真っ黒になるような感覚になりました。敗戦後から今日まで、日本のどこかがゆがんでいる、歪みがあると言われてきましたが、何と行っても、人間の物欲やエゴ、利己主義の肥大が主な要因であるとは、石原慎太郎さん等これらの現象を憂うる多くの人々の見方です。
考えてみれば、戦後、私たちは人生を自分本意で思いどおりなると考えてきたようです。しかし、物欲とエゴの混ざり合ったご都合主義などそうそう叶うものではないでしょう。そして、この不平不満が社会の犯罪の根底にあるとするならば、もう一度、人生のあり方を問い直してみる必要があると思います。
私は、この頃、歳のせいでしょうか、法華経を読誦するたびに「世の中には生老病死」の憂患(憂いと・わずらい)ありと説示されたお釈迦様の教えにより強くひかれます。
人によれば、「生まれれば老いて病になり死ぬことは分かり切ったこと」そのようなことを強調してといるから仏教が暗いと言うかも知れません。
しかし、私は、むしろ、この句を、一方的に、暗い、陰気だといってしまう今の考え方に問題があるように思います。
確かに、人生で、「生」、生まれることは、めでたい。光です。老いること、病むこと、まして死ぬことは、苦しみ。陰です。これは今も昔も変わりません。
変わっていたのは環境です、昔は、家の中に、近所に生と老病死が一緒に存在しました。出産を喜ぶ家には老人も同居していました。生まれた赤ちゃんが小学校に上がる頃には、老人が、病になる家も多かったでしょう。病人は家族で看護しました。亡くなる間際の家族との辛い別れは、子どもにも強く印象として残ったはずです。亡くなれば、近隣の人々が家に来て忙しく葬儀の段取をしました。結婚式も葬式も家族、親族、近隣縁者が共に関わりました。まさしく、「生老病死」が人生そのものだと捉えられる環境がありました。
幼児期から青少年期にこのような環境で過ごすことは、忍耐心を養い、欲望の肥大を防ぎ、家族助け合い、人としての道を外れない生き方を身につけることができやすかつたと考えます。
しかし、現代は、「生」と「老い、病、死」が離れてしまっています。若者や、夫婦は都市や市街にが移住し、両親と別居する場合が増えています。所謂、核家族化が進行しています。若者の家庭では「生」は光で老病死は「陰」です。自ずから、光を求め、陰から遠ざかろうとします。また、病になれば入院し、家庭で病人を看護することは少なくなりました。葬儀も家庭から、葬儀場に移っています。
この間も、養老孟さんが著書の中で、東大医学部解剖学教室の准教授の時、東京の団地から献体者の遺体受け取る様子を書いていました。依頼があったので、遺体を納める棺桶を持参しましたが、棺桶がエレベータの乗らない。しかたがないので縦にして乗せて上がりましたが、遺体を納めてから降りる場合、困ったそうです。棺桶が開かないように紐で縛り、何とか降りて、管理人の方にどうしてこのような場合のためのエレベーターを付設してないのかと聞きましたら、管理人はこの団地は若者を対象に作ったので、死人を乗せることは考えてなかったとか。養老先生は二の句もなかったとのことです。
若者も、癌や、交通事故死はあります。それでも多くの場合は彼らの感覚では死は無縁のものになっているようです。また、年長者もできるだけ若くありたいとして、老病死を遠ざけようとします。「生老病死」が暗いイメージしか与えないのも無理からぬことです。
けれども、お釈迦様は老病死は何人も免れないものであるから、そのことを平生から心することが、、人生で一番長い青年期、壮年期を意義あるものにすることであると説示されているのです。しかし、かといって現在の社会や人生の環境を今一度昔に戻すことは不可能でしょう。ならば、如何にするか、このことを我が国としては、真剣に考えなければならないと思います。
現在行われている教育を、もっと善行を強く勧め、悪を戒め、苦難にたいして忍耐心を持つような内容にしなければならない。核家族化しようと、親子、兄弟の結びつきの大切さ、助け合いの尊さは強調し、さらに、共に助け合う共生の思想を普及すべきだと思います。
東北大震災には、全国から多くの義援金と事故処理を支援するボランティアが集まりました。このことを、記録し、語り続け今後の教育に生かしたいものです。
正福寺院首稲垣宗孝でした。ご清聴感謝いたします。