東日本大震災が起きてから一年が経ちました。今年の三月十二日から十五日まで僧侶と檀信徒九名で、宮城県仙台市・塩釜市・石巻市の被災地を訪れました。
塩釜市では、小高い丘の上に立つ、港が見渡せるお寺で慰霊法要を行いました。お寺の駐車場も少し陥没して、本堂や庫裏の壁もヒビが入り、やっと応急修理が終わつたように住職が話されていましたが、建物の傾きは俄かには直せないこと、地震の大きさをあらためて感じました。
 その数日前には岩手県宮古市の方の遺体が塩釜港の沖で見つかったことも聞き、遺族の心中を察する中での慰霊法要でした。翌日は石巻市から車で一時間先に位置する雄勝地区を訪ねました。
 雄勝は習字の硯や、東京駅の屋根の黒い石版で全国に知られている土地ですが、この地も激しい津波に襲われました。市立雄勝病院という白い三階建ての病院が海岸ぷちにありました。津波が来るということで、医師・患者全員が三階の屋上に避難したそうですが、残念なことに、津波はそれ以上の高さで、六十余名の方々が亡くなられたと聞きました。裏には小高い山があるのですが、どうすることもできなかったのでしょう。窓のガラスが壊れ、カーテンが風にゆれていました。玄関にはたくさんの生花と線香が供えられていました。
 雄勝は入り組んだリアス式の天然の良港ですが、多くの家屋が流され、今は地域ごとに仮設住宅ができています。学校の運動場の一画、公園の中などにありますが、三月中旬になると、ワカメ取りの作業が始まり、私たちが訪ねた二か所の仮設住宅は、元気な方々の多くが、その作業にでかけて、自治会の役員の方やお年寄りの方々が出てこられました。 集会所で自己紹介の後、様々な話を聞かせていただきました。津波で情報手段が寸断されて、自治体と数日間連絡がとれなかつたこと、裏の雪山を歩いて越えて連絡を繋げるようにして、数日後やっと自衛隊の救援物資がヘリコプターで届いたこと、津波の避難で近くのお寺に駆け上がり、お寺の玄米を焚き、ガレキの中から食べ物を探して、飢えをしのいだことなど、その時の記憶をひとつひとつ確認するかのように、数人の方々が語られました。震災の話は当時の有様を甦らせてしまうので、気持ちの上で半分は話したくない、でも、半分は話して気持ちを捉えてほしいという思いのようでした。
 雄勝でもお寺の住職の遺体が一年ぶりに見つかり、ちょうどこの日、葬儀が執り行われているというお詰もお聞きしました。雄勝硯伝統産業会館という立派な建物や学校も無残な姿となり、周辺では建物の取り壊し作業も進んでいました。ボランティアも加わって復旧に向けて少しずつ動きが感じられました。ここは、ホヤやカキの養殖が盛んと聞きましたが、新たに再開するにはお金と時間がかかります。でも、「ワカメ取りの動きが出てきたことが元気の源です」、と笑顔で語られるのが明るい話題でした。
 復興に向けての話になると、高台の用地は限られているし、津波があつても、先祖からの土地にまた住まいを建てたいと云う、思いを語る人、仮設住宅は数年で立ち退かなければならないが、自分の年を考えると新築をすべきか考えてしまう、という声もありました。本当はここが一番住みよいが、子供が都会にいるから呼ばれたら、町へ行くことも考えてしまいます、と語る人もありました。
 これから本当にむずかしい選択が迫られます。にぎやかに、そして地元の民謡の披露があったり、半日の仮設住宅訪問も、元気に手を振る方々に送られ別れを告げました。最初は緊張しての訪問でしたが、訪ねてよかったな、とみんなで語れた訪問となりました。
 雄勝からトンネルを抜けて下ると北上川河岸。その目の前に見えるのが、その三分の一以上が崩落した新北上大橋。そのたもとに石巻市大川小学校がありました。多くの児童、教職員が犠牲となつた学校です。今ではガレキの撤去も終わり、校門の所には、全国から送られた慰霊碑やたくさんの生花、飲み物が供えられ、線香の煙が空に向かつて立ち上っていました。校舎から五〇メートルぐらい離れた所に、屋外ステージが傷つきながらも残っていましたが、その後ろの壁面には児童によって作られたのでしょうか、宮澤賢治の 「雨ニモ負ケズ」の詩がきれいな色合いで書かれていました。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ 玄米四合卜
味噌卜少シノ野菜ヲタべ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシ ワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニ ツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南二死ニサウナ人アレバ
行ッテ コハガラナクテモイイトイヒ
北ニ ケンクワヤ ソショウガアレバ
ツマラナイカラ ヤメロトイヒ
ヒデリノトキハ ナミダヲナガシ
サムサノナツハ オロオロアルキ
ミンナニ デクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
という詩がこの全文です。
 一人ひとりの命を見つめ、一人ひとりと向き合って、悲しみや苦しみを聞きなさい。そしてそこから、自分にできることはないかと、自分の使命を受け止めましょう。相手が幸福にならないと自分も幸福にはならない。賢治はそう考えました。宮澤賢治のメッセージです。
 それだけに、痛々しい光景でもありました。今回も自然の厳しさと、現地の人々のたくましく生きる姿を目にして来ました。
 被災地を訪れるのは今回で三回目。一回目は震災から二か月目に、県内の多くの方々からの義援金を携えて福島・宮城・岩手県を訪問。二回目は震災から百日目の法要で、宮城県気仙沼・岩手県陸前高田・大船渡を訪ねました。一年経つと、津波で壊された家やガレキもかなり片づけられていましたが、一か所に集められたガレキの山を見て、改めて一日も早くガレキの処分が進むことを祈らずにはおれませんでした。このガレキを地元それぞれの自治体で処分していくと十年かかると聞きます。これから暑くなると、ガレキが腐敗して、においやハエが発生して、不衛生にもなります。ガスが発生して火災の危険性もあります。確かにガレキに放射能の汚染の不安もありますが、検査によりそのことが払しょくされれば、受け入れも可能ではないでしょうか。
 一日も早く被災地の復興が達成され、心身ともに安らかな時を迎えられることを願わずにはおれません。
 私たちは、命を尊び、ともに協力し合って安穏な社会を作ることを目指して行かねばなりません。
 岡山市北区 菅野 幸福寺 藤田裕正がお話いたしました。