皆様明けましておめでとうございます。
今朝は井原市、美星町、妙昭寺住職、高尾龍進がお話しをいたします
一年ごとに歳を重ねて、言葉。単語は出にくくなって来ましたが、排出のほうは、忙しくなってきました今日この頃であります。
若いときは「飲む、打つ、買う」と言うことを言いますが、年寄りも負けてはいけません。年寄りの「飲む」は足が痛い、腰が痛い、ここが痛いと言うことで、健康薬を飲む。「打つ」、は若い者に邪魔者扱いされないように、健康のためにグランドゴルフ、ゲートボールに行って、しっかり打つ、「買う」はドラックストアーで失禁パンツを買う、と同時に自動歩行器・健康ベルトなど通信販売でこれも長生き、健康のために買うことです。
年寄りは昔語りをして、若者どもに顰蹙をかっていますが、でも、昔の行事、様式は風情がありました。
お餅を焼くにしても、電子レンジや電気トウスターで、すぐに焼けて柔らかくになります。
待たなくてもいいのですから、すぐ食べられます。でも情緒がないんです。
火鉢に火を熾して、金網に餅を乗せて、油断することなく、焦げないように忙しく片面を焼き、反対側を焼いて、きつね色に焼き上げます。
お餅のいい匂いに早く食べたい、早く焼けろと、たべたいのを我慢して、焼くので余計美味しいのです。
昔、湯豆腐を食べさせる有名なお寺に行きました。むろん、湯豆腐をいただくためです、
座敷に通され、湯豆腐を注文しました。物音一つしないシーンとした、静寂。遠くに聞こえる鹿威しの「コーン」という音。お客さんが次々に来ている様子もないし、この部屋だけの感じ。「これは豆を引いて、にがりを入れて、本格的に豆腐を作っているからだろう。手間暇掛けているから、相当うまい湯豆腐だろうな」期待に話が進みます。それから待つこと三十分。
「お待たせいたしました」それぞれの前に炭火の上に湯豆腐の鍋が乗っています。
「オーやっと来たか、これは美味しいだろう。待った甲斐があるだろう」
でも感激するほどの味でもありません。後日湯豆腐やの和尚に人づてで聞きました。「極意はのう。待たす事じゃ。今食べられる。もう食べられる、と思えばいっそう美味しく食べられるのじゃ」と、アア、極意を聞かない方がよかったと、思いました。
寒くなると、火鉢を引っ張り出して、火を入れて、お客さまに「ちこうよれ」と、火鉢に手をかざして貰います。
高齢者の人は「わあ、懐かしい」と近寄っておいでになり、昔の生活話に花が咲きます。
町にお米やさんがあった頃、店主が「麦飯を食べたいから麦を配達してくれ、炭を持ってきてくれ」と頼まれると、このお宅はお金が出来たなと、思うんです。お客さんの家の経済がよくなると、健康の事を考え、麦飯を食べ、炭をおきして鉄瓶でお茶をたしなむようになるのです」と言われていました。
東京に出かけたときに定宿にしているホテルがあります。駅から近くいろんな乗り換えが出来る場所なのですが、悪いことには風呂がないのです。シャワーだけなので、全身を湯に入れて、くつろぐことが出来ないのです。
田舎でも薪で風呂焚きをするのが、無くなってきています。残り火をかき集めて、火消し壺に入れて、堅炭を熾す付け火の役に使用していました。
火鉢や炭を知らない若者が今はいるのです、
「これはなんですか。これが火鉢なのですか。イヤー始めてみました。エッこれでお餅を焼くのですか、面倒くさいことをするんですね。
電子レンジで焼いたほうが、早いでしょう」と、おっしゃいました。
とって置きのかき餅を出してきて、初めての経験をする、若いお父さんに、焼き方を指導して焼いて貰いました。餅焼きをしたことの無い幼稚園の子供と、「ワーおもしろい、楽しい」と一生懸命焼いて、「美味しい。美味しい」と焼いては食べています。
ある日。その火鉢に少し灰が少ないようなので、わら灰を作って足すことにしました。
その火鉢は口径六十センチほどの、先代が大事にしていた、有名作家の作った備前焼の高価な火鉢です。
座敷の中で灰を入れると、灰ぼこりが舞い上がるので、重い火鉢を外に持ち出して、入れることにしました。
火鉢に藁灰だけを入れると、熱を持って火鉢の底が熱くなり、畳が焦げたりしますので、
砂を底に入れ、その上に瓦かお皿を入れて灰を入れます。この火鉢もそのようにしてあるので、重くなっています。
玄関はコンクリートの土間から、板張り、そして二段の階段になっています。火鉢が大きくて、重くて、両手を広げている状態なので、足元がよく見えません、座敷から二段の階段の上の板場に左足を掛けました。
左足を掛けたつもりですが、足が少ししか掛かっていませんでした。
少ししか掛かっていない足に、重い火鉢ですから、左足を踏み外してしまいした。左足の太ももを段の角に思い切りぶつけました。「痛ッー」大声を上げました。その拍子に有名作家の火鉢が手から放れて、コンクリートの上に、「ドーン」という音を立てて、落ちました。
火鉢の中の灰が、空中に舞い上がりました。
灰は頭の上から降り注ぎました。
毛糸の帽子、顔、上着の肩から全身灰だらけになり、眼鏡も灰だらけになり、見えなくなってしまいました。
手で眼鏡をぬぐって、足の痛いのを我慢して、火鉢ににじり寄りました。割れていないか。ヒビが入っていないかさすり、コンコンと叩いてみると、乾いた音がしていますので、投げ方がうまかったのか、落ち方が良かったのでしょうか、大丈夫のようなので一安心です。
気を取り直して、全身真っ白な、桜の花を咲かせられなかった、悪い花咲爺さんのようになった灰男が、足を引きずり、わら灰を手でかき集めて火鉢に入れ、ほうきでまき散った灰を掃き寄せ、ちり取りで火鉢に戻しました。
ガラス戸、板敷きの玄関を雑巾で何回も、何回も拭き上げました。コンクリートのタタキは水を流してきれいにしました。
火鉢を雑巾で拭き、もう一度異常はないかと叩いて確かめました。
寒い中、帽子、上着、ズボン、靴下を全部脱いで、灰をはたき落として、下着だけになり、足を引きずりながら、家内の前を通り、風呂場に行きました。顔だけ白い舞台化粧をした全然受けなかった下手な役者が、衣装を抱えて、下がって行くような感じです。
お茶を飲みながらテレビを見ていた家内が「大きな音がしたようだけど、火鉢落としたの?備前焼の自慢してる火鉢でしょう。割れていないんでしょうね」とお尋ねになります。「オイオイ。お前さんの前を足を引きずって行った病人、病院に行かなくてもいいのと心配しないのかよ」と言いたくなりましたが、黙って、風呂場に行きました。
日蓮聖人が「日眼女釈迦仏供養事」に次のように言われています。
「厄と申すはたとえば、風は方より吹けばよわく角より拭けばつよし。病は肉より起これば治りやすい、関節より起これば治りにくい」と言われていますので、足の痛さは打ち身ですから時間が経てば自然に治るでしょうが、「火鉢は大丈夫」という家内の一言。私の「こころ」の疵は長引きそうです。
今朝は井原市美星町妙昭寺住職高尾龍進がお話しいたしました。
当山、妙昭寺では二月三日に節分の祭りをいたします。節分には鬼を払うのですが、当山では祭りが始まる前に、鬼が出て悪さをしばらくしますが、法華経の功徳を聞いて、みんなを守りますと、改心して誓いを立てます。
皆様今年も良い歳でありますように。南無妙法蓮華経。