おはようございます。
本日は加賀郡吉備中央町 具足山 妙本寺 住職 平野信行がお話させていただきます。
昨年10月22日から29日まで日蓮宗の僧侶、檀信徒の方15名で、インドの仏跡を参拝して参りました。私は初めてのインド旅行でしたのでとても楽しみにしておりました。
今回は妹尾の一心寺様のインド分院とアムダのピースクリニックの五周年記念法要にも参列させていただきました。「一心寺様とアムダはヒンズー教が中心となっているインドに仏教と医療の復興を願い共同で力を入れられています。」
さて、インド旅行では、約一万人の修行僧が学び、お釈迦様や、玄奘三蔵も足を運ばれた言われるナーランダ仏教大学跡を始め、お釈迦さまが法華経を説かれた霊鷲山。さらには、竹林精舎、温泉精舎、ビンビサーラ王牢獄跡、第一回結集の地、七葉窟へ登山。お釈尊様、苦行の地、前正覚山。七葉窟の登山は登れども登れども到着しない大変なところでしたが、眺めも素晴らしく参加者の皆さんで仏典結集当時に想いを巡らせました。
ブッタガヤでは大塔、金剛宝座、尼蓮禅河、スジャータストウーバを参拝。お釈迦様が初めて説法された初転法輪の地、サルナート。聖なる河、ガンジス河では、多くの方々が沐浴し祈りをささげられていました。
お釈迦様がお悟りを開き、歩かれた場所を参拝し 行く先々で言葉を無くし、それぞれの場所で有難い思いでお経を読させていただきました。特に霊鷲山では参加者全員でお題目を唱えながら登山し山頂での一読、ご来光を拝むことが出来ました。
お悟りを開かれた、ブッタガヤの大塔も有難くて有難くて、次の日の早朝一人でお参りに行きました。
あっという間の一週間の旅行でしたが、私にとっては、インドは「衝撃」と「感動」の連続でしたが、また、改めてインドは有難い聖地であることも実感いたしました。
インドを参拝させていただき、一番の衝撃は貧困の格差でした。国の人口は10億人を超えるそうですが、行く先、行く先で、人が道にあふれ、人の多さにも驚き、いつ交通事故が起きてもおかしくない状況でした。
そして至る所に、仏さまの霊跡にも関わらず、物乞いや、ボロボロの服に、裸足の子供たちが溢れかえっていました。お釈迦様の聖地、そのお膝元ではこんなに苦しんでいる子供たちがいる事に、大変な驚きを感じました。アムダの方に聞きますと、子供の死亡率が非常に高いそうです。せめて靴でも履けると死亡率が減少するそうですが中々行き届かないそうです。
しかし、時間が経つにつれて物乞いの子供ばかりではなく、親の畑仕事を手伝い、頑張っている子供もいる事に気が付きました。豊かな自然の中に、小鳥が囀り、リスが走り回り、牛や豚、鶏までが人間と共に生活しています。決して裕福とは言えませんが、そこに住む子供たちの目は光り輝いていました。
最初は気の毒に思っていたインドの子供たちの生活も、考えようによってはとても健全で幸せなのかもしれません。
インドを旅していて、私はふと宮沢賢治の「雨にも負けず」の一説を思い出しました。
「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」いつも、欲望にあふれ、怒りちらし、常にムッとした顔でいるのが私たちではないでしょうか?、
私たちは日々の生活の中で、心のどこかに常に幸せを求めてしまいます。その基準は物質的な満足を精神的な幸福と思ってしまう事が大いにしてありがちです。少なからず物質的な満足が 幸福感を得る事があるかもしれません。
そこには私たち人間の心に住む煩悩がいたずらをするのかもしれません。その煩悩は数えきれませんが、その中で代表的な煩悩、中々自分の力では抑えられない 制御しにくい3つの煩悩があります。それを3つの毒と書いて三毒と言います。その三毒とは、貧・瞋・痴の3つをいいまして、まず一つ目には、「貧」、貧しいという字を書きまして「貧」、あれが欲しい、これが欲しい、と言う、むさぼりの心(貧欲)です。次に、「瞋」憎しみ・いかりの心、欲しいものが手に入らなければ怒りの気持ちが込み上げて来ます。(瞋恚)、そして3つ目に「痴」愚痴の痴を書きまして「痴」ものごとの正しい判断ができず、迷う心(愚痴)、思うようにならず、怒りが起こり、そして相手かまわず愚痴をこぼすようになる心です。この三つを三毒と言います。
三つの毒が身に深く入った状態はといいますと「ものごとに執着し、常に怒りの気持ちで心が一杯になり、ものごとが正しく判断できず、自分を守るために相手を非難する人」と言うことになります。
仏さまは、この三毒を制御することによって安らかな状態に達することを説かれています。
では、どうすればいいのでしょうか?
一番目の貪欲の「貪」。欲望やむさぼりの心、その心を捨てて、今あることに満足し、全てを自分以外の人々に与えるように心がける。
そして二番目の「瞋」。憎しみ怒りの心を捨てて、全てを許すように心がける。
三番目の「痴」とらわれ迷い非難を言葉にすることを捨てて、こだわりのない、すべての人を許し、褒めるように心がける。
中々出来ないのですが、3つをまとめますと、「今ある事に満足し、すべての事を受け入れ許し、他者を褒める」ように心がける事なのです。
私たちは幸せになりたいんですね。仏様のご慈悲は、はかり知ることは出来ませんが、仏さまの慈悲の心のように、相手を思いやり、相手を受け入れ、ゆるすことが出来ればどんなに日々の生活が豊かになるかわかりません。
正に宮沢賢治さんの「欲はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている」の心だと思います。私たちには出来なくても心がけることは出来ます。
日蓮聖人は「心の財をつませ給ふべし」と仰せです。心に財を積めばそれは内面から自らを飾り、一人一人の人生を輝かせ、やがては安穏な社会への力となることを示されています。
インド旅行で賢治さんの「雨にも負けず」を思いだし、インドの子供たちに幸せとは何かを考えさせられました。
お彼岸が参ります。ご先祖様に感謝の気持ちを捧げ、日々精進しましょう。 合掌
本日は妙本寺の平野信行がお話させていただきました。