おはようございます。私は、岡山市北区の建部町にあります龍渕寺の僧侶で、田淵妙純ともうします。ラジオを通じてお話をする機会を与えていただきましたこと、大変ありがたく思っております。これから約一〇分間、お付き合いをよろしくお願いいたします。
先日、岡山より、三〇名ほどの団体で千葉へ参拝の旅に参りました。四か寺へ参拝し、
法要に参加。また御住職のお話を拝聴するなど、ありがたい団参となりました。帰路につくときにはみなさんいつものように両手に抱えきれないほどのお土産を持っておいででした。聞くところによりますと、岡山県民は旅に出ると全国で一番お土産をたくさん買われるとか・・・。私はこれを『人付き合いを大切にする心の表れ』と受け止めています。もちろん、家族へのおみやげもあるでしょう。でもおそらくほとんどは人様に差し上げるために買い求めることが多いのではないでしょうか。『日頃お世話になっているから』とか『いつもいろいろいただいているから』とか、理由は様々でしょうけれども、義理であれ何であれ、皆さん人付き合いを大切にしていらっしゃるからこそお買い物に奔走されるのではないでしょうか。そこにあるのは、感謝の心、また、人に喜んでもらいたいというあたたかい気持ち、ですね。
お土産をたとえにして申しましたが、人に施しをすることを仏教では『布施』といい
仏道修行ではとても大切なこととされています。
お釈迦様の教えに、『あげた相手を忘れ、あげたものも忘れ、あげたこの私自身を忘れることができる』これが本当の助け合いであり、お礼であり、恩返しであるといわれます。これがなかなか私たちにはできません。つい、いただいたものに値段をつけてしまい、これはいくらくらいだろうか、ならば、おかえしはこれくらいで。などと、余計なことを考えたりします。また、あげたものは五〇〇〇円だったのに、返ってきたのはその半分、などと気まずい思いをしてしまうこともあるのではないでしょうか。このような思いを抱くのは本当の恩返しにはなりませんね。こんな思いを超えて、人付き合いの中で物を差し上げる、またお金を施すことで、恩返しをすること、これはすばらしいことであります。
けれども、他人に施し、与えるのは、何も金品だけではありません。お釈迦様は、お金も物も施さなくてもよい布施をお説きになっています。自分にお金がなくても、相手に喜びを与えることができる、少しでも喜んでいただける方法がある、そして、与えた自分も幸せになるという『無財の七施』という教えです。これは、無財つまりお金を必要としない七施、7つのお布施ということです。この七つのお布施を申し上げますと、
まず第一に「眼施」。「げん」は、眼です。やさしい目で人に接するということです。
「目は口ほどにものを言う」という言葉もあるように、目はずいぶん人の気持ちをそのまま表してしまうようです。「優しい目」で人に接すると、相手の方は決して悪い気はしないでしょう。
次に「和顔施」同じ「げん」ですが、和やかな顔と書いてわげん です。つまり、笑顔。
笑顔は人を幸せな気持ちにさせてくれますね。
美貌は年をとると衰えるが、和顔は年とともに輝く、といわれます。人を幸せにして、自分も幸せになる、すばらしいですね。日々、いろいろなことがありますが、笑顔を忘れずに過ごしていきたいものです。
三つめは「言施」「ごん」は、言う という字。つまり「ことば」ですね。優しい言葉で接するということです。同じことをいうのでも、乱暴な言葉づかいや冷たい言い方をすると相手の方はどうでしょう?また、それがあなたにむけられた言葉だったら?
言葉ひとつでも、やる気がでたり、とても気持ちがなごんだりするものです。逆に、心無い一言でずいぶん傷ついたりすることもあるでしょう。口先だけなんて、と思わず、まず優しい言葉をかけてみると、相手のかたもきっと笑顔になってゆくでしょう。
四つめは、「身施」「しん」は、身体のしん、つまりからだ、です。自分の身で出来ることを奉仕する、ということです。
私の子どもがまだ小さかったころ、私が三人の子どもを連れて電車から降りようとすると、見知らぬ方が、「手をひいてあげましょう」と上の子の手をひいて一緒に駅の階段をあがり、改札口まで連れて行ってくださいました。とてもありがたく、何度もぺこぺこお辞儀をして御礼を言った事を覚えています。まさにこれが「身施」ですね。あのときのありがたい気持ちはずっと忘れません。ほかにも子どもたちが大きくなるまでには、いろいろなシーンで多くの手を差しのべていただいています。感謝の気持ちでいっぱいです。このご恩を返すには、私がまたまわりのかたに奉仕させていただくことだと思っています。
五つめは、「心施」。音は同じく「しんせ」
ですが、今度は「こころ」のしんです。相手のひとの心になって思いやる。これは仏様のお心そのものです。大きな慈悲、思いやりのかたまりです。人の苦しみをわが苦しみとして受けとめ、また人の喜びを我が喜びとして受けとめる、これが慈悲の心、仏様の心です。相手のことを気の毒だわ、かわいそうねえと言っている人も、相手が喜んでいる時に我が事のように喜ぶことはなかなかできません。それを受けとめてこそ、本当の慈悲の心、「心施」ということになるでしょう。
このような心が育っていけば、今まで申し上げました「眼施」ーやさしいまなざし、「
和顔施」ー穏やかな顔で人に接する、「言施
」ーやさしい言葉をかける、「身施」ー自分のからだで奉仕する、このすべてにおのずとつながっていくような気がします。となると
この「心のお布施」が一番重要ということになるでしょう。そうして相手の痛みを分かち合い、喜びも分かち合うことのできる本当の慈悲の心をはぐくんでいきたいものです。
六つめは、「床座施」席を譲りなさいという教えです。公共の乗り物に乗ると、優先座席というものがあって、高齢者や妊婦さん、体の不自由な方たちの為に席を設けてあります。でもそこには、今言ったような方たちではない人が座っているのを見かけることがあります。優先座席はもちろん、そうではない席であっても、すすんで席を譲るということが、大きな施しとなるという教えです。初めは少し勇気のいることかも知れませんが、「どうぞ」のひとことで大きな施しができるということです。乗り物に限らず、どんな場所でもそんな心の持ち方が大切です。
最後、七つめにまいります。七つめは、「房舎施」耳慣れないことばですが、宿を貸しなさい という教えです。今の世の中ではぴんと来ないかもしれません。私の友人が若いころ事故にあい、車ごと川へ落ちてしまいまいた。幸いけがはなかったのですが、車は全く動かず、あたりに民家もありません。しばらく歩いてやっとたどり着いたその家で事情を話すと、快く一晩泊めてくださったそうです。こんなことはめったにないと思いますが、近ごろは親戚を泊める事すら少なくなってきたのではないでしょうか。たしかにホテルや旅館はどこにでもあり、便利になりました。でも、その家ならではのおもてなしがあるはずです。快く人を迎え、そして送り出す、これが七つめの施しです。
あるご婦人がこんなことをいわれました。
「私はたくさんの兄弟と育ってきて、ちっとも裕福ではなかったけれど、幸せだったよ、親にはいつも、『人に良くしなさい、自分はよくされなくても、人にはよくするんだよ』と言われて大きくなった。わたしはこれを今まで守ってきたつもりよ。」と。また、あるかたは、「私の母は、ろうそくのような人でした。わが身を削ってあかりをともし、いつもまわりに光を与え続けてくれた。言葉ではいえないほど感謝しています。」とおっしゃいました。まさに、さきほどの仏様の教えをずっと実践してこられた方たちですね。
あまりにも有名な宮沢賢治さんの『アメニモマケズ』のなかに、『ジブンヲカンジョウニイレズニ』という一節がありますが、どこまでもひとの幸せを願い、人に喜ばれることをし続けたその先に最高の安らぎ、本当の幸福があるに違いないとおもいます。
きょうは、龍淵寺、田渕妙純がお話させていただきました。ありがとうございました。