最初に、御嶽山の噴火をはじめ、災害で犠牲になられた方々のご冥福をお祈り致しますと共に、被災地の一日も早い復興をご祈念して、お題目をお唱えさせて頂きます。
南無妙法蓮華経
「山高きが故に貴からず、樹有るを以て貴しと為す」
山は高いから貴い(とうとい)のではない、樹があるから貴い(とうとい)のである。
外観が立派なだけでは本当の値打ちがあるとは言えない、見かけよりも実質が大切であるということのたとえです。
我々は物事を見かけだけで判断しがちです。そのことが原因でとんでもない失敗を経験したという方もいらっしゃるかもしれません。
皆様おはようございます。秋の彼岸が過ぎ、衣替えを迎え、朝夕めっきり冷え込んでまいりました。また、先日本州に爪痕を残した台風18号に続き、台風19号が近づいております。皆様も台風対策等で忙しくされていることと思います。そんな忙しい早朝よりこの仏教アワーをお聞き下さりありがとうございます。今朝は真庭市久世、日蓮宗興善寺住職朝崎暢彦がお話をさせて頂きます。
さて、明後日10月13日は体育の日です。体育は体(からだ)を育てると書きます。普段我々は体育イコール運動ととらえがちですが、体(からだ)という漢字は、にんべんに本(ほん)という字から成っていて、"人の本質を育てる"ととらえることが出来ます。人の本質とは内面、すなわち"心"のことではないでしょうか。
本日はこの"心"についてお話させて頂きます。
先日、青色発光ダイオードの開発で日本の3人の方がノーベル物理学賞を受賞されました。
その中の1人、名古屋大学教授の天野浩氏は、学生時代、大学の講義で聞いた言葉に感動され、「勉強とは人の役に立つためにすることだ」と初めて実感されたそうです。青色発光ダイオードの開発は「まさに人の世の、役に立つこと」と確信し、研究に取り組んでこられたそうです。
人の心には10の世界があると言われています。
地獄 餓鬼 畜生 修羅 人間 天上 声聞 縁覚 菩薩 仏
です。
 仏の心とは何でしょう。「人のために」この心こそが仏の心ではないでしょうか。
お釈迦様が晩年お説きになられた法華経の12番目に『提婆達多品第十二』というお経があります。
ここで説かれている内容は、龍女の成仏についてのお話で、8歳の龍の娘がすぐに悟りを得た、というのです。
当時お釈迦様がおられたインドでは、女性は5つの大きな存在になることはできないとされていました。その中の1つが仏です。さらにはお釈迦様ですら、長い長い時の中で難行苦行し徳を積み重ね仏となったにもかかわらず、女性の身でしかもすぐに悟りを得たとはどういうことなのでしょう。
ここで考えて頂きたいことは、お釈迦様が身命を惜しまず修行し、悟りを得、仏となったのは何のためなのかということです。衆生、いわゆる我々のためであります。
龍女は、
『我大乗の教を開いて苦の衆生を度脱せん』
(私は、大乗の教えすなわち法華経をもって苦しみの人々を救いましょう)
と語ります。
この姿、この姿勢こそが仏の証、仏の姿を表しているのではないでしょうか?
自分の利益を顧みず、他人のために何かをしてあげる姿勢・行動こそが仏の姿であるはずです。
ある月刊誌に次のようなお話が載っています。
 スイスのある町に、一人の老人がやってきました。そして、まだ舗装されていない通りで、子どもたちが遊んでいるのを、ニコニコして眺めています。そして、ときどき身をかがめては、なにかを拾ってポケットに入れています。
こういうことが、何日か続いたある日、とうとう、警官がそばにきて、
「いま、なにか拾ったようだが、見せてくれないか」
「これは、見せるようなものじゃありませんよ」
といって見せたがらないので、いよいよ怪しいと思った警官が、手をポケットに入れそうにしたので、その老人は自分でポケットの中のものを手の上にのせました。
「なんだこれは。ガラスの破片ではないか、こんなものを拾ってどうするのかね」
その老人は、子どもたちのほうを指さして、
「はだしの子もいるし、ころんでヒザこぞうや手をつく子もいるので、あぶないと思ってね」
これは、愛による新しい教育論を説いて、それを実践し、「教育の父」といわれた、スイスの教育家ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの、ある日のエピソードです。
これぞまさしく龍女の姿・仏の姿と言えるのではないでしょうか。
日蓮大聖人は『一生成仏抄』というご文章で、
「衆生の心汚るれば土も汚れ、心清ければ土も清しとて、浄土と云い、穢土と云うも
土に二つの隔てなし。ただ我等が心の善悪によると見えたり」
とおっしゃっておられます。
浄土とは仏の世界であり、穢土とは我々が住む世界のことです。2つの世界に隔たりがあるのではなく、我々の心次第だ、というのです。
善の心とは仏の心、仏の心とは与楽抜苦の心、楽を与え苦しみを抜く心です。
  与楽とは、人々に利益と安楽、幸福をもたらそうと望むこと。
抜苦とは、人々から不利益と苦、不幸を除こうと欲すること。
ご存じのように、イム(ホトケ)という漢字のにんべんはヒトを意味します。
我々は仏になるための種を持って生きています。その種を育てるべく、皆様も「一日一善」を目標にして、近いところで家庭の中で実践されてはいかがでしょうか?
目まぐるしい日常生活の中で、自分のことだけではなく、他人のことを考えることの出来る心の余裕、すなわち"ゆとり"の心を持つことが出来るならば、日々の生活もゆとりをもって生活することが出来、果ては、仏の姿になることでしょう。
それでは、本日もお健やかにご生活出来ますようお祈り申し上げまして、私のつたない話を終わりとさせて頂きます。御聴聞ありがとうございました。
本日は、真庭市久世、日蓮宗興善寺住職朝崎暢彦がお話させて頂きました。
南無妙法蓮華経