皆様おはようございます。今朝もお元気でお目覚めのことと存じます。
今朝は、岡山市北区建部町富沢 日蓮宗成就寺住職 広本栄史が放送いたします。私の住む建部では、たけべの森の桜が、今咲き誇っています。本日明日と、はっぽね桜祭りがおこなわれております。どうぞ、お出かけくださいませ。
昔の人が「明日ありと思う桜のあだ桜、夜半の嵐の吹かぬものかな」。きれいに桜が咲いた。明日はお弁当を以って桜見物に出かけようと思って起きてみたら、一夜の嵐によって散ってしまった。私たちの命もこの桜の花のように、いつ散るかわかりません。そのことを日蓮さまが「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことなく、風の前の朝露にたとえるまでもないことである。尊い生まれのものであれ、平凡な生まれのものであれ、老人であれ、、若者であれ、定めのないものである。であるならば、まずは臨終のことを習い極め、他のことはその後にしようと念願してきた。」と申されています。人はおおかたに、年を取らなければ死なないものだと思い込んでいる。
兼好法師の徒然草に「年をとってから初めて道を修行しようと待っていてはならない、古い塚の多くは年端のいかぬ人のものである。思いもかけず病気になり、たちまちにこの世を去らなければならない時に及んで、初めて過去の過ちを知ることになる。過ちというのは他のことではない。速やかにすべきことを後回しにし、ゆっくりやってよい俗事にばかりたずさわり過ごしていたことを悔やむことになる。その時になって悔やんでみても甲斐の無いことである。人の命は無常で、いつもわが身に迫りつつあることを心にしっかりと掛けて、つかの間も忘れずにいることが肝要である。」速やかにすべきことを後回しにするとは、臨終の用意がないことを言っているのです。
昔ある王様が「人間の歴史を知りたい。」と国中の学者に命じて本を集めさせると、それは5百巻になりました。しかし国政に忙しい王様は要約を命じました。
学者が二十年をかけて五十巻に要約するも、王様は年を取りすぎてそれを読むことができませんでした。そこで学者は一巻に要約し持参しました。ところが王様は死の床についており、わずか一行にして、王様の臨終の際に耳元でこう告げたのです。「人間は生まれ、苦しみ、そして死ぬ。それが人間の歴史でございます。」生きるというのは苦しむことなのです。
仏さまの教えは「生きるということは、本来『苦』である」と説かれている。
『苦』とは苦しみというよりは、むしろ思い通りにならないという意味です。
仏さまは『苦』を細かく分けられ、「生苦」生まれてきて生きることは大変だ。
「老苦」次第に年をとっていく。「病苦」病に侵される。「死苦」死への旅立ち。そして「愛別離苦」愛するすべてのものと別れていかなければならない。「怨憎会苦」会いたくないものに会わなければならない。「求不得苦」求めても得られない。思い通りにならない。「五蘊盛苦」精神的、肉体的な苦しみ。これを四苦八苦と言います。これらを味わいながら生きていかなければならないんだと。現代は昔のように「自分を生み育ててくれた両親の面倒を、子が見るのは当たり前の美徳ともいえる時代は過ぎ去り、核家族化になり一人暮らしのお方が増えている。昨年末から今年に入り、厳しい寒さの為か孤独死の方がありました。Aさん八十八歳の女性はお風呂で倒れ、翌朝友達が訪ねてきて発見された。Bさん八十二歳の女性はトイレで倒れていて朝訪問に来られた人に発見された。Cさん八十二歳の女性はストーブの前で倒れていて、二週間ぶりに発見されました。一人暮らしのお方はなるべく、親族のお方、近くの友達に再々電話したり、健康状態を話しておくことが大切だと思いました。特に自分の希望、財産、お葬式、お墓などについて書き残しておくことが必要だと思います。三月二十九日の朝日新聞、「悩みのるつぼ」に六十歳前半の女性が、自身の延命処置、葬儀・墓はなくていいと思う。という相談をされていた。解答者の社会学者 上野千鶴子先生は、「延命処置は、今はいらないと思っていても土壇場になって気が変わるかもしれない。手だてがあれば一日でも生き延びたいと思うのは人情、その場になって考えても遅くはない。葬儀と墓は死んだ後のこと、残された親族が傷つくかもしれません。葬儀は残された者がけじめをつけるための儀式。あくまで生きている者の為にあると観念して下さい。何よりも家族のあいだで死を話題にできることはすてきなこと。死は親が子に伝える最後の教育の場であることを忘れないでください。」と答えておられました。
私は、ハンセン病療養所長島愛生園と光明園に定例布教に行っています。国の政策により結婚しても子供は作らせなかった。現在高齢になられ一人暮らしのお方が多い。そこで終活について親しい友達同士話し合われ、ご自身の葬儀のこと、追善供養のこと、また財産のこと等お話しされているようです。お葬式の時などその方がお世話をされています。お釈迦さまが、黒白二頭というお経に、旅人が行方も知らず荒野を彷徨っていた。そこへ荒れ狂った牙をむき出した象が襲いかかろうとした。旅人は一生懸命逃げる。追いかけてくる。疲れ果てたときに幸い空井戸を見つけ、隠れるべく降りて行った。都合良く木のツルが垂れ下がっていた。ツルにつかまって降りて行くと象は上から牙をむきだしにしてうなっている。とにかく殺される心配はなくなった。ところが下を見たら毒龍が大きな口を開けて待っている。上からは狂った象がのぞいている。一寸疲れてきたので足をかけなおそうとすると、毒龍がペロペロと上にも下にも横にもいる。上を見ると今度は黒と白の二匹の鼠がかわるがわるツルをかじりだした。これを切られたら下へ落ちていかなばならない。追い払おうとツルを揺すると根の所に蜂が巣を作っていた。動かす度に甘い蜜が落ちてくる。旅人の口に入る。旅人はその蜜の甘さに酔いしびれ、恐ろしさをすっかり忘れ蜜の甘さに夢中になってしまった。旅人というのは自分自身の人生、狂象とは世間の迫害。例えば道路を歩いていて横を通る車がいつ狂象となって襲いかかってくるかもしれない。空井戸というのは人生のちまた、毒龍というのは死へと落ちていかねばならない所、白と黒の鼠というのは昼と夜という意味。蜜は愛欲・享楽のこと。上にも下にも横にもいる毒龍とは人間が生きていく四つの要素、地・水・火・風。地とは肉体。、水とは血流、火とは体温、風とは息が順調に活動している時は健康、四大不調となると死です。私達は蜜の甘さに酔いしびれ、すっかり恐ろしさを忘れていないでしょうか。無常の世の中、毎日を悔いのないよう楽しく過ごしましょう。
今朝は岡山市北区建部町富沢 日蓮宗成就寺住職 広本栄史が放送しました。