皆様おはようございます。
本日は岡山市北区、日蓮宗日應寺院代、山本応也がお話いたします。先月は、ずっと梅雨が続いているようなどんよりとした天気が続き、昨年の猛暑、酷暑を思い出せないような夏でしたね。また、先日おこりました「広島市土砂災害」では多くの尊い命が一瞬で奪われました。ラジオをお聞きの皆様とご冥福をお祈り申し上げたいと思います。「南無妙法蓮華経」。
ここ岡山は「晴れの国」と言って、大変安定した天気の続く土地と言われています。そのおかげもあってか、「果物」、とくに白桃やぶどうなどがたくさん栽培される「フルーツ王国」でもあります。日應寺のお檀家さまをはじめ、皆様がたの中にも果物やお米等を栽培されている方がたくさんおられることと思います。
日應寺では今の時期、果物やお米を栽培されている方々が多い「講中」で、五穀豊穣や家内安全をお祈りする「お日待」というおかんきが行われています。私たちがこの世で生活する中で、必要不可欠となる「おひさま」のちから。そのおひさまを神様とする「大日天王」をお祀りする行事が「お日待」です。時代の流れで時間は短くなっているのも事実ですが、「信仰」が生活に根付いている「岡山」、大事にこれを護り続けていきたいと思います。
日蓮宗のおかんきでは、「法華経」、いわゆる「妙法蓮華経」をお唱えします。お題目の「南無妙法蓮華経」はもちろんのこと、「法華経」のなかの「方便品第二」、「如来寿量品第一六」をお経本無しでお唱えされる方もおられます。
ただ大体の方が「唱えられるけど、何を書いとるんかはさっぱりわかりゃあせん」と言われます。私も、法事やおかんきの時には、積極的にお経の説明をしておりますが、その場限りでは中々十分にお伝え出来ません。
また、こう言う私も実際はまだまだ理解のゴールは見えてもおりません。
法華経「方便品第二」の前半に「其智慧門 難解難入」と言う言葉が出て参ります。「其の智慧の門は理解しがたく、入りがたい」、「仏様の智慧は勝れているけれども、その仏様の智慧で考えた事を、私たちのような凡夫にそのまま教えてもわかるようなものではありません。」と仰られているのです。
ですから「信解」とういうことが非常に大事になってきます。解す、理解することは、「信」、すなわち信仰が加わって初めて本当の理解となります。
「信仰」といわれても、、、と今度はお考えになると思います。「其の智慧の門は難解難入なり」ただわかろうと思ってもわかるものではありません。けれどもだんだん聴いていれば、なんとなく自然に、その仏さまの力が自分の心にしみ込んで参ります。良くわからないけれど「ありがたい、尊い」という気分になってくると、その尊いという気分によって助けられ、今までわからない事がだんだんわかって参ります。
昨今、葬儀をはじめ、法事、地域のお祭りなどが、「やる意義がわからない、自分には関係ない」などの理由でどんどん簡略化され、消滅の危機にまでさらされております。「信仰心がない」事が一つの理由のように言われておりますが、はたしてそうなのでしょうか?「信仰心」は人に言われて生まれてくるものなのでしょうか?そうではありません。いつの頃からか日本は学力至上主義、売上至上主義といった全てに結果を求める時代に変わってしまいました。個人の判断で、必要のないものは全て無駄なもの、という雰囲気が広まりました。そんな時代に、頭ごなしに「信じろ、信仰しろ」と言ってもなかなかそうはいきません。ではこのまま信仰のない時代になってしまうのでしょうか?ご安心下さい。ただ、初めはどうせ疑うものですけれども、冷たいものに触っていればいつか手が冷たくなります。熱いものに触っていればいつか手は熱くなります。香りのあるものに触っていればいつか香りが手にうつります。疑ってもよろしい、研究されてもよろしい。何でもよろしい。仏の教えというものは尊いものだ、この尊い教えに触れていれば、初めは疑いであっても知らず知らすの間に、なんだか有り難い、何と無しにその力が響いてきます。
「漢方薬は、飲んでみると苦いし、くさいし、飲みにくい。飲む時間も食前?、食間?、と難しい。頑張って飲んでみたけれど、すぐに効き目があらわれない。だけど確実に飲んだ人の身体にたまっていき、ゆっくりと効き目があらわれる。仏様から頂く智慧・功徳はそういうものと思って下さい」
このように私は「仏様の智慧・功徳」を漢方薬に例えての法話を良くします。法事の施主であろうと参列者であろうと、お寺の檀家であろうとなかろうと、ご供養、ご祈念の気持ちがあろうとなかろうと、そんなことは関係なく、その場にいる人たちに仏様は、平等に「智慧や功徳」を授けて下さいます。屋台や雰囲気を楽しみに初詣や盆踊りや秋祭りに出かけたついでに手を合わせてみたり。私たちが頭で考えるとちょっと失礼な状況においても神仏は功徳を授けて下さいます。
仏様の教えは難しいし、理解し辛い。けれどもその場の状況に応じて私たちに自然と智慧や功徳を授けて下さっています。
ふとした瞬間にこの事を感じて頂けると幸いです。そこから「信仰」が生まれて参ります。
「信仰」したから「すぐに頭が良くなる、お金持ちになれる、病気や怪我がなおる」わけではありません。それが自分の幸せだけでなく、身の回りの人たち、ひいては社会全体に笑顔や勇気を与えられる一助になるものであれば、その人にそうなるための頑張る力を授けて下さいます。
「お彼岸が近づいてまいりました」お墓参りに行かれる方も多いと思います。供養せんとおえんぁ、そろそろお墓の掃除をせんとおえんなぁ、こう思われた瞬間こそ、ご先祖様、仏様から「信仰」の気持ちが生まれるためのご案内を頂いた証なのです。
なにげない瞬間に幸せを感じてみて下さい。
本日は岡山市北区、日蓮宗 日應寺院代、山本応也がお話いたしました。