皆様おはようございます。今朝は瀬戸内市長船町福岡にあります日蓮宗妙興寺の住職、岡田行弘(ぎょうこう)がお話いたします。
 今年は太平洋戦争の終戦の年、昭和20年、1945年から、70年の節目の年に当たります。私は昭和28年生まれ、満61歳ですから、戦争を直接経験してはいません。しかし、私は住職という立場上、90歳代で亡くなられた檀家の女性の方の葬儀をする時もしばしばあります。その時、「この方の御主人はいつ亡くなっておられたのかな」と思って調べてみると、昭和18年とか、あるいは終戦の昭和20年に戦死されていた、ということがあるわけです。そのような時に、「この方は、61歳の自分が経験した時間より、もっと長い期間を遺族として過ごされていたのだ、というようなことが痛切に感じられるようになりました。

このように、第二次世界大戦は、今生きている私たちと無関係ではありません。昭和20年8月15日、日本が戦争に負けた日の延長線上に、今の平和な日本の平成27年があるということは、厳然たる事実であり、そのことを改めて考えてみることが重要だと思います。
ちょうど1か月前の4月8日、天皇皇后両陛下は、太平洋戦争の舞台となった島国パラオを訪問されました。翌日の9日、アメリカ軍との激戦の末、一万人近くが亡くなったペリリュー島の最南端にある「西太平洋戦没者の碑」において、両陛下は日本から持参された白い菊の花を供え、深く一礼されて、戦没者の霊を慰められました。また両陛下は、激しい戦闘が行われた「オレンジビーチ」にあるアメリカ軍の犠牲者の慰霊碑にも花輪を供え、黙とうを捧げられました。この模様はテレビで繰り返し報道されておりましたが、歴史が甦ってくるようなインパクトがあり、大変感銘を受けました。

私自身もささやながら、この3月、妙興寺の檀家の方々、14人のグループで、台湾に慰霊法要の旅に出かけました。今朝は恐縮ですが、この2泊3日の台湾訪問についてお話しいたしたいと思います。
私の祖父、岡田栄源は明治26年生まれ、西暦でいえば1893年生まれで、日蓮宗の僧侶です。いずれは私の曽祖父が住職をしていて、いまは私が住職を務めております瀬戸内市福岡の妙興寺を継ぐ予定でした。この祖父栄源は、日蓮宗から海外布教師に任命され、日本が統治しておりました台湾に開教監督として赴任、台北、タイペイの中心地にある法華寺の住職となりました。大正15年、1926年の事です。
当時は、多くの日本人が台北に住んでいました。その方々の協力を得て、本堂を広げ、境内を広くして非常に立派なお寺にしたことが、当時の新聞に載っております。この法華寺は、檀家や信者も多く、常に数人のお弟子さんがいて、賑やかなお寺であったということです。
 しかし、昭和16年に太平洋戦争がはじまり、戦況は次第に厳しさを増してまいります。昭和18年のこと、祖父栄源は、東京の宗務院で所要を済ませ、岡山にも立ち寄ったのち、台湾へ戻るため、高千穂丸という客船に乗船しておりました。そして3月19日、台湾の基隆の港を目前にして、アメリカ軍の魚雷の攻撃を受けました。高千穂丸は、台湾に到着する直前に撃沈されたわけです。
救命ボートに全員が乗ることはできません。栄源は自分の救命胴衣を他の人に着せて、自分は波間に漂いながら、海に沈むまで大きな声で南無妙法蓮華経と唱えていたそうです。1000人余りの乗客の内、助かったのは100人ほど、台湾の漁民の方が、日本人を命がけで救ってくれたそうです。
栄源の最期の模様を目撃した人の話は『台湾日日新報』昭和18年4月21日号に掲載されていて、そこには
「衆生済度へ今日蓮、身は従容と波に消ゆ」
とあります。その時祖父は51歳でした。
 祖父のお墓は妙興寺の境内にありますが、その中に遺骨はありません。いまでも基隆の港の沖合に眠っているからです。
今年3月18日、私たち一行は、宿泊していたタイペイ市内からバスで1時間余り、基隆の港近くの海岸に赴きました。そして「高千穂丸遭難者第七十二回忌追善供養」の塔婆を立て、お線香を供え、14人の参加者とともに、お経をあげました。気温は23度ほどでしたでしょうか、海はあくまでも穏やかで、蝶々が2羽舞っていました。72年前のこの日に、目の前に広がる太平洋で1000人近くの方が亡くなったということが信じられないような気がいたしました。

 基隆での慰霊法要に続き、私たちは、タイペイに戻り、祖父が住職を務めていた法華寺を訪問しました。もちろん今では法華寺は日蓮宗の寺院ではありません。台湾の尼僧、尼さんが住職をしておられ、観音菩薩や阿弥陀仏をまつる台湾仏教の寺院になっています。私の父、妙興寺の先代住職は、12年前に81歳で亡くなりました。小学校・中学校時代はこの法華寺で育ったわけです。ですから若き日を懐かしみ、毎年のように法華寺を訪問し、交流を続けておりました。

 法華寺の住職や信者の方々は私たちを盛大に歓迎してくださいました。法華寺の門の前には、今でも高さ3メートルはあるでしょうか「南無妙法蓮華経」のお題目の碑が残っています。また本堂の中には、戦前からの大きな打ち鳴らしのカネと太鼓があり、そこには岡田栄源の名前とともに寄進者の日本人名が刻まれております。このような日本統治時代を物語るものを今でも残してくださっている台湾の方々の心の広さ、優しさを思うと、本当に有り難く、感謝の気持ちで一杯でした。私たちは本堂で法華経を読誦し、亡くなられた人々を供養し、あわせて法華寺の信者の方々の現世安穏や後生善処を御祈念いたしました。

 法華寺には「大乗妙法蓮華経」と書かれた大きな本の形のお経本が各席に備え付けられております。妙法蓮華経の第25番目は、観音菩薩が衆生の願いに応じて救いの手を差し伸べて下さることを説く「観音経」です。日本と中国では読み方こそ異なりますが、同じ法華経を読んでいるわけです。おなじ経典を信仰しているという深いつながりを確認できたことは大きな収穫でした。
 この度の旅行では、改めて台湾の方々が本当に親日的であるということを実感しました。日本が、50年間にわたり、台湾を統治し、植民地にしたという歴史の中には、光の部分もあれば影の部分もあります。私は日本人として、過去を反省することを忘れてはならないと思います。
帰りの飛行機の中では、70年の歴史を越えて、私たちを温かく迎えてくれた台湾の方々に対する敬意の心を、いつまでも持ち続けたいというようなことを考えておりました。


 本日の担当は、瀬戸内市長船町福岡の日蓮宗妙興寺住職、岡田行弘でした。