妙勝寺 藤田 玄祐

  おはようございます。本日は、岡山市船頭町 日蓮宗妙勝寺住職 藤田玄祐がお話をさせていただきます。
 十一月を迎え、朝晩めっきり寒くなってまいりました。落ち葉が舞い、次第に秋風が冷たさを増すこの季節になりますと、私ども日蓮宗では御会式、お講のシーズンを迎えます。御会式と言ってもご存じない方もいらっしゃると思いますが、御会式とは日蓮宗を開かれた日蓮聖人が、東京は池上本門寺で亡くなられたご命日、旧暦の十月十三日を中心に営む報恩法要のことで、今年で721回目を迎えます。
 岡山では月遅れで行いますので、十一月十二日がお逮夜、明けて十三日がご命日。市内の多くの寺院では、きれいな飾り付けをして法要を営みます。十三日には、檀家さん信者さんはお講巡りといって、市内の日蓮宗寺院を順次参拝していく習慣が古くからあります。ちょうど四国八十八カ所をお遍路さんがまわるように、グループを作りまた個人で、行く先々のお寺で接待などを受けながら、秋の一日をお寺参りをしながら過ごすのです。しかし、最近ではこのお講巡りのお参りの数も次第に少なくなり、少し寂しい感じも致します。そこで、今年はお講巡り用の御朱印帳を新たに作り、伝統継承のための努力を少しずつ重ねているところです。時代の変化とともに様々な習慣が変わっていくのもいたしかたないことかもしれませんが、何だか寂しいことですね。
 さて、最近は不景気・不景気といいながら、公共施設をはじめ、目を見張るような立派な建物も増えてきました。きれいなお店、おしゃれなお店もたくさん出来て、お店に入りましても店員さんは笑顔で迎えてくれ、卒のない受け答えをします。しかしながら対応は確かに見事でも、どことなく落ち着きの悪さを感じることもあります。企業の不祥事が続く昨今、接客マニュアルの整備は殊のほか進んでいるようですが、お店の方が笑顔を見せるのも、深くお辞儀をするのもそれがマニュアルにあるから、一応そうしているだけで、そこに本当の気持ちが入っていない事が、見え隠れしているからではないでしょうか。極端な場合、慇懃無礼という言葉が頭に浮かぶことさえあります。そんな折り、次のような話を聞きました。
 ある人気のあるレストランでのお話です。その店に若い夫婦がやってきました。お店のウエイトレスは、二人用の席に案内して注文を取りました。夫婦は自分たちの食事以外に、もう一品、料理を頼みました。「お子さまランチをください。」応対したウエイトレスは困惑しました。このレストランのマニュアルでは、お子さまランチは、9歳未満の子ども以外には出せないことになっていました。そう言われて若い夫婦は悲しそうな顔で互いを見つめ合いました。その時ウエイトレスは、勇気を出して、「そのお子さまランチは、誰が召し上がるのですか」と尋ねました。「今日は、昨年亡くなった娘の誕生日なんです。私の体が弱かったせいで、娘は最初の誕生日を迎えることもできませんでした。まだおなかの中にいたときに、生まれたら主人と三人で、ここのお子さまランチを食べに行こうねって約束していたのに、それも果たせませんでした…。それで、今日は娘にお子さまランチを頼んであげたくて、参りました。」その言葉に、ウエイトレスは言葉を詰まらせました。そして、次の瞬間、彼女は二人を別の席に案内しました。家族四人でかけられるテーブルです。さらに子供用の椅子も持ってきました。もちろん、そのテーブルにお子さまランチが持ってこられたのは言うまでもありません。「どうぞ、ご家族でごゆっくりとお楽しみください。」ウエイトレスはそう言って、テーブルを後にしました。
 このウエイトレスさんの行動の背後には、とても暖かい気持ちが感じられます。それは、仏教の立場から言えば、慈悲の「悲」の気持ちです。一般に「慈悲」と一言で申しますが、これは「慈」と「悲」にわかれます。「慈」は人々を慈しみ、楽を与えることであり、「悲」は人々をかわいそうに思い、苦を除くことです。ウエイトレスさんは、テーブルに向かい合って悲しそうにしている二人をほっておけなかったからこそ、勇気を出してその理由を尋ねたのです。マニュアル通りの対応であれば、どんな表情をしていようが、二人をそのままにしておけばよかったのです。が、彼女のやさしい「悲」の気持ちが「そのお子さまランチは誰が召し上がるのですか」と尋ねさせたのです。この一言をかけることは難しいことではありません。誰でも声にできる一言です。でも、誰でもがやれる一言ではありません。もっと言えば、これはできるかできないではなく、やるかやらないの問題なのです。
 法華経は11番目の章、「見宝塔品」の中に「六難九易」というお釈迦様の教えが出てきます。「六難」とは六つの難しいこと、「九易」とは九つの易しいことを指します。例えば、易しい「九易」の中には、乾いた草を背負って燃えさかる炎の中に入って焼けないことは易しいとか、須弥山という大きな山を投げることは易しいとか、大地を足の爪の上に置いて空高く昇ることは易しいとか、とうてい出来そうにないことが易しいこととして列挙されています。
 それに対して、難しい「六難」では、お釈迦様が亡くなった後に法華経を持つことや法華経を説くこと、書写することなどが難しいこととして挙げられています。果たしてどちらが難しいことでしょうか?乾いた草を背負って燃えさかる炎の中に入って焼けないことなど、とうてい出来そうもないことです。それに対して、お釈迦様の亡くなった後に法華経を説くことなどは、とても簡単そうに見えます。それでもその簡単そうなことをお釈迦様は難しいことだよ、とおっしゃっています。これは何を意味しているのでしょうか。実はここでいう「九易」とは、よく考えてみると、とうてい出来そうにありませんが、もしその能力があれば出来ることです。それに対して、「六難」は、それ程高い能力は必要としませんが、意欲を必要とするものばかりです。難しくはないけれどもやる気を必要とするもの。言い換えれば、気持ちがなければ出来ないもの。これを指してお釈迦様は、難しいことですよ、とおっしゃっているのです。
 良くできたマニュアルがあれば、なんでもうまくできるのかもしれませんが、それは本当は易しいこと。マニュアルを越える気持ち、心を持つことが本当は難しいこと。大切なことは、できる・できないといった能力ではなく、やる・やらないの意欲・気持ちですよ。というお釈迦様の教えがそこにあるように思われます。
 私たちが日頃いろいろと言い訳をつけて、できない・できないと言っていることも、振り返ればやってないだけのことかもしれません。頭の痛いことですが、法華経の第一章「序品」の中で、すでにお釈迦様は、こうおっしゃっています。「懈怠なりし者は汝これ也。」「怠け者は御前じゃないか」と。
 本日は、岡山市船頭町 妙勝寺住職 藤田玄祐がお話申し上げました。向寒の折、皆様方、風邪などひかれませんようくれぐれもお気をつけください。