宗蓮寺 垣本 孝精

 お早うございます。今朝は、日蓮宗、宗蓮寺住職、垣本孝精、六十才がお話しをさせていただきます。
 八月六日は広島に、続いて昨日、九日には長崎に原爆が投下され、多くの人たちが犠牲になりました。八月十五日は終戦記念日です。八月は平和と命の尊さについて考えさせられる月ですね。また、十三日からはお盆です。ご先祖さまを迎える準備は進んでいらっしゃいますか。
 さて、数年前、本屋でふと目にとまったのが自費出版のコーナーにある、片山茂夫著「さあ、帰ろうな岡山へ」というタイトルの本でした。手に取りパラパラとめくったところ、この番組でもお馴染みの、岡山市平井、妙広寺ご住職、都守健二上人が西田幾多郎博士と日蓮聖人のお手紙を引用して前書きを書いていらっしゃるではありませんか。知っている方が出てくると、おやおやっと野次馬根性が頭をもたげ、一層興味が湧いてきます。
 ところが内容は悲しいものでした。ある中堅スーパーに勤める三十二才の青年がマレーシアへ出張中、事故死したというのです。衝撃が走りました。お店の人に尋ねたのですが、非売品だから在庫がないと断られました。何とかして手に入れたく、都守上人にお願いし、すぐ著者の片山さんに連絡を取って一冊送って下さいました。
 「短い人生をあっという間に駆け抜けて逝ってしまった長男の足跡を風化させたくないという親ばかの想いで筆を執ったもので、人様にお読みいただけるようなものではないかと思いますが…」と、ご丁重な手紙も入っていました。
 一気呵成に読みました。将来を嘱望されていた片山さんの一人息子の弘通さんが会社の仕入れ担当としてマレーシアに出かけ、買い付けを終えたのち不慮の事故に遭い、亡くなってしまいました。片山さんは会社での会議中、その知らせを受けますが、「嘘だ」、「嘘だ」といい続けます。何かの間違いだと気を落ち着かせます。
 奥さんは五年前胃の手術をうけ、五分の一の胃でがんばっています。その入院に照れながらも付き添いで病院に泊まり込み看病したのが弘通さんで、奥さんはそのことをいつも自慢にされていました。弘通さんは一年前に結婚し、楽しい日々を送っていました。翌年の四月にはお子さんも誕生の予定です。妹さんは結婚が決まり、弘通さんが式場の下見をするなど妹思いで、妹さんもお兄ちゃんに晴れ姿を見てもらいたいと言っていました。一方、お祖父ちゃんはお祖母ちゃんを入院させ淋しい時でした。そんな家族に片山さんはどう話したらいいのか、術を知りません。家族のみなさんも、ただならぬ気配は感じていたようですが、どうしても話すことが出来ませんでした。やがて、弘通さんの上司が重い口を開きました。一瞬、暗い沈黙が続き、切り裂くような悲鳴が起こりました。
 片山さんは弘通さんを迎えに行きます。弘通さんが眺めた同じ南国の海を眺めながら、飛行機はマレーシアの空港に着陸しました。空港へは七、八人の人が迎えに来てくれていました。そこでも片山さんは「おや? 親父が来たのに、なんで、弘通は迎えに来ないのか?」と、怪訝に思います。
 現地での悲しい対面です。静かに横たえる息子さんの遺体に、なお「なんだ、眠っているだけではないか」とさえ思います。「おい、起きろよ、起きろ、起きろ!」。何回も呼びかけますが目は開きませんでした。事実は冷酷なものでした。遺体を前に慟哭します。「迎えに来たよ…。さあ、帰ろうな、岡山へ」。父親の万感の思いが込められています。外国故に困難を極めながら、お骨にせず、なんとか遺体のまま、家族の待つ岡山へ連れて帰りたいと、片山さんは必死の努力をされます。思いが手に取るように分かります。現地の人たちも希望に添うよう協力します。生きていれば、帰りの機内で食事はうまいとかまずいとか、土産はどこで買ったとか、弾んだ会話が飛び交ったことでしょう。それに引き比べ、柩の上にネットをかけられ、エアーカーゴへ運ばれる余りにも変わり果てた姿に片山さんは思わず取り乱します。
 本には辛い苦しい悔しい胸のうち、家族の深い悲しみの綴りとともに、弘道さんが生まれてからの写真、子どもの頃両親に当てた手紙や、自筆の飛行機の絵、成長する姿やお母さんの日記、弘通さんのお嫁さんによる新婚の楽しかった様子、妹さんの兄への尊敬と思慕などが載せてあり、その時まで和やかで穏やかな家庭であったことがひしひしと伝わって来ます。それがよけいに涙をさそいます。かといって、私には涙を流す以外どうすることも出来ませんでした。
 それから四年が経過しました。私は東京での任を解かれ、岡山に帰って来ました。そしてつい最近、都守上人のご厚意で片山さんご夫妻にお目にかかることが出来ました。会社の役員も退職され、苦しみがまるで隠し味のように、静かに話されました。
 「お経は有り難いと理屈では分かっていても、本気で唱えることは出来ませんでした。しかし、息子のおかげで、為度衆生故、方便現涅槃、而実不滅度、常住此説法、と心の底から唱えられるようになりました。そしてやっとこうやって息子の事がお話し出来るようになりました…。当時お腹にいた孫、菖輝も、写真でしか顔を知らない父親の墓参りを、お盆、お彼岸、命日と、母親に連れられ欠かさずしています。難しい世の中、母親一人で苦労も多いでしょうが、父親のように元気で優しい子に育ってほしいものです」。
 片山さんが言われたお経文は、法華経第十六番目の壽量品、お自我偈の一節です。衆生を度せんが為の故に、方便して涅槃を現わすも、しかも実には滅度せずして、常にここに住して法を説くなり、という意味です。
つまり、お父さんお母さん、私はお父さんお母さんの長男として生まれましたが、仮にお先に参ります。姿は見えなくなるけれど、決して無くなってしまうのではありませんよ。この娑婆世界にいつも留まって、何かに姿を変え、お父さんお母さんはじめ、多くの人たちを救うために法を説いて参ります。そのことを是非早く分かって下さいね、というのです。なんと尊く、なんと見事な法でしょう。
 私にも経験があるのです。私はお寺で生まれ、お寺で育ちました。父は徴用でフィリピンの戦地に赴き、栄養失調がもとで結核を患い、私が十八才のときに亡くなりました。私は父の兄弟弟子だった稲荷山奥の院のご住職の弟子にしていただき、小僧生活を奥の院で過ごしましたが、始めての夜、犬が一匹、辛そうに遠吠えしているのが聞こえます。とても犬のものとは思えません。緊張とそれが気になり、その晩は寝付かれませんでした。仲のよかった多くの友達は県外や県内の大学に進み、楽しく愉快にしているのに、なんで私だけこんな目にと、父親が元気でいてくれたらと恨めしく、何度思ったか知れません。けれど、四年間の奥の院での小僧生活の間に、犬があれほど悲しそうに遠吠えしたことは、その後一度もありませんでした。きっとあれは父の泣き声だったのだと思います。それからは、ああ、父も「すまん、すまん」と悲しんでくれていたのだ。ひょっとすると私以上に悲しい思いをしながらも、見守っていてくれるのだと、なにくそと歯をくいしばれるようになりました。それを支えてくれた母は平成元年に七十四才で亡くなりました。苦労続きの母のことを思うと、また涙が出てしまいます。そのおかげで今日の自分があると思っています。そういえば…と、あなたも思い当たることがあるでしょう。思い出して下さい。
 もうすぐお盆。日蓮聖人は回向功徳抄というご文章の中で「私たちは父母の物を譲ってもらいながら、父母はもう死人であるから何も出来まいと考えて、死後の安楽を願わなかったら、恐ろしい事だよ」と、ご先祖の霊を慰めることの大切さを教えておられます。譬え幼くして亡くなっても、私たちの先輩となって、姿を変え常に身の回りにいて、教え導いてくれているのです。その事に早く気づき、感謝をもって日々自分を高めていく努力をしていかなければならないと思います。
 今朝は岡山市津寺、宗蓮寺住職、垣本孝精がお話ししました。暑さのおり、どうかお大事にお過ごし下さい。