当山の境内には桜の木が10本ほどあり、今年も見事な花を咲かせました。子ども連れの家族やカメラを持った老夫婦が、思わず感嘆の声を漏らしながら通り抜けて行かれます。そんな方にご挨拶すると「毎年、楽しみにしています」と笑顔で返して下さいます。
花の盛りが過ぎるのは早いものです。いたずらな風が吹く度に花吹雪が舞い、短い楽しみは夢のように終わってしまいました。蕊だけを残し、新緑の葉っぱが一斉に芽吹いています。
いつものようにこの後、葉桜が茂り、厄介な毛虫の心配をしなくてはなりません。毎年そう思っていました。ところが、今年は何故だか落花のあと、赤紫の蕊が樹下に降り積もって、まるで絨毯のようになっていることに心を惹かれました。今までならば地面に積もった蕊は、庭ぼうきで掃き集めて、何のためらいもなく燃えるゴミに出していたでしょう。「見つつ観ざりき」でした。
花びらを散らした蕊は、しばらく桜の木に色を添え、その役目を終えて葉っぱと入れ替わりに、ひっそりと静かに地面に落ちていたのです。花びらと対照的な散り際に、心を惹かれて、ネットで検索してみました。すると、俳句の晩春の季語に「桜蕊降る」という表現があることが分かりました。読者の皆様はすでに知っておられるのかもしれませんが、自分はこの歳になって初めてその光景、心情と共に「桜蕊降る」に出会い、感動しました。
あまりにも素敵だったので、1カ所だけ掃き集めないで、そのままにしておきました。降り積もった桜蕊は、やがて赤紫から赤茶色に、そして焦げ茶色になり、土になじんでしまいました。そこからは草の緑が萌えだして、天地は躍動し、生命の力があふれ出しているようでした。
「桜蕊降る」は俳句の季語としては、はかなさや無常を表すようですが、それだけで終わらない過去から未来へ続く生命の力強さを感じました。
心の散歩道VOL.37(2022年発行)より



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